江川とのライバル対決が話題になった54年のシーズン、掛布は48本塁打で初のホームランキングに輝く。小さな体で、どうすれば飛距離を延ばすことができるか――この長年のテーマに、その年、掛布は一つの解答を導き出す。

 

<この原稿は1991年7月5日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

 

「ボールを自分のバットで潰すコツをつかんだんです。叩くのではなく潰すことで、自分の力をボールに伝える。上に上げてはダメなんです。30度くらいの角度でボールを潰しながら上げなくてはいけない。それには、とりわけ手首の力がいる。そして、インパクトの瞬間、小さく小さく絞っていた体を一気に爆発させる。関係者からは“無理な打ち方をしている”とよく言われましたが、田淵さんがいなくなって、ファンは僕にホームランを求め始めたわけです。本当はホームラン王は僕がとってはいけないタイトルだった。しかし“これはオマエのタイトルじゃない”と言える自分はいなかったですね」

 

 前年のオフ、タイガースは大激震に見舞われる。ミスター・タイガースの田淵幸一が、深夜の電話で西武への移籍を通達されたのである。掛布を始めとするチームメイトにとってこれは寝耳に水の“事件”だった。

 

「ウソやろ! と思うと同時に、タイガースのフロントに対して腹が立って腹が立って仕方なかった。悔しいわ情けないわで、居ても立ってもいられない気持ちだったですよ」

 

 掛布雅之を語る上で、田淵幸一という天才スラッガーの存在を抜きにすることはできない。“れば”や“たら”で人生を語ることは無意味だが、もし田淵がそのままタイガースで野球人生を全うしていれば、掛布の野球人生もまた、今とは違ったものになっていただろう。

 

「僕がタイガースというものを初めて身近なものに感じたのは、実は田淵さんがいなくなってからなんです。田淵さんがいる間は、金魚のフンみたいにチョロチョロしていればよかった。つまり、田淵さんの掌の上で遊んでいればよかったんです。ところが田淵さんがいなくなって、いざ自分の色を出そうと思ってもタイガースという名のキャンバスが広大過ぎて、何をやっていいかわからないんです。今までなら少々ミスをしても、田淵さんという巨大な壁がいつも僕たちを守ってくれていた。それが、ある日突然なくなったわけでしょう。相手チームに向かっていくにしても、タイガースの一員としてではなく、虎の親玉として向かっていかなくてはならない。その意味でも良くも悪くも、田淵さんのトレードが僕の野球人生を違ったものにしたと言えるかもしれませんね」

 

 アベレージに生きていたバッターが、ひとりのスラッガーの移籍を機にホームランバッターの役目を強いられ、見事その期待にこたえながらも、打法変換による歪みの蓄積を余儀なくされる。掛布は「ホームラン王はとってはいけないタイトルだった」という。しかし、349本のホームランにファンが魅了され続けたことも、また事実である。

 

<昭和63年10月19日、引退試合当日。「掛布雅之、夢をありがとう」の垂れ幕に、掛布は男泣きした>

 

 昭和61年4月20日、ナゴヤ球場で掛布は中日のルーキー斎藤学のストレートを左手の親指付け根に受け、全治4週間の骨折を負う。56年の開幕戦から続いていた連続試合出場は663試合でストップ、約1カ月後に戦列復帰したものの今度は右肩を痛めて再び登録を抹消されるなど、この年はアクシデントに相次いで見舞われた。またもや“たら”“れば”の話になってしまうが、中日戦のデッドボールがなければ、よもやその2年後にユニフォームを脱ぐはめにはならなかったのではないだろうか。

 

 それに対する掛布の答えはこうだ。

 

 

「やめる直前の3年間の中で、一番大きな出来事というと、確かにあのデッドボールになるんです。でも、それで引退が早まったとは思いたくもないし、思ってもいない。

 

 それよりも、なぜもっと我慢して治すことに専念できなかったのかという気持ちの方が強い。ケガしてからというもの、自分の掌に残る感触と打球の飛距離が全く合わなくなってしまったんです。それをいろんなトレーニングによって補おうとしたが、その間にいろんな雑音が入って、右往左往してしまった。結局は自分が弱かったということでしょうね」

 

 不振に陥ってからは、何度となくスタンドから痛烈な罵声を浴びせられ、脅迫電話、手紙にも悩まされた。オレがこれまで必死でやってきたことは、いったい何だったのか。掛布は激しく苛立ち、そして傷ついた。

 

 63年10月19日、引退試合。「最後に場内を一周してファンにありがとうと言ってくれんか?」というマネージャーの頼みに対しても「ファンに頭を下げるのだけは嫌です」と首を横に振った。

 

 ところが、グラウンドを一歩出た瞬間に目にした「掛布雅之、夢をありがとう」という垂れ幕が掛布の頑な心をやさしく溶かした。感極まって男泣きする掛布の背に、5万人のカケフコールが降り注ぐ。

 

「15年間の長い間、ご声援、本当にありがとうございました」

 

 ほんの10秒足らずの短いセリフに、掛布雅之の15年間の栄光と挫折の全ての思いが凝縮されていた。

 

「実は優勝を経験したことで、もう僕に野球の忘れ物はないと思ったんです。しかし引退試合でファンの声援を聞いた時、初めて僕を支えてくれたものが何だったのかということに気づいた。そう、僕を支えてくれていたのは監督でもコーチでも先輩でもなく、ファンの、手が痛くなるほどの拍手だったんです。すんでのところで、僕はそれに気づかないままユニフォームを脱いでしまうところだった。大きな忘れ物をしてしまうところだったんです。甲子園球場のグラウンドとファン、今でもこの2つの存在に対しては感謝の気持ちでいっぱいです。素直に“ありがとうございました”と言いたい。いずれにしても今の僕があるのは甲子園のおかげですよ」

 

 夢を追い、夢に破れ、その破れた夢を取り繕いながらも懸命に生きた掛布雅之の15年。江夏が抜け、田淵が去った80年代、阪神タイガースは掛布雅之とともに喜び、喘ぎ、そして咆哮した。

 

(おわり)


◎バックナンバーはこちらから