巨人時代、通算8シーズンで、わずか9本のホームランしか記録していなかった男が、北海道日本ハムに移籍した今季は、6月5日時点で早くも6本である。スポーツ紙には「開花」や「覚醒」といった見出しが躍る。言うまでもなく大田泰示のことだ。

 

 

 2009年のドラフト1位。高校通算65本塁打。原辰徳監督(当時)の母校・東海大相模の出身ということもあって注目を浴びた。背番号「55」は大田が入団する7年前まで松井秀喜が付けていたもの。球団の彼に対する期待の大きさを窺わせた。

 

 ところが、なかなか「大器」から「未完の」の3文字がとれない。身長188センチ、体重95キロの偉丈夫ながら、本人は「(巨人時代は)結果を求めるあまりに(打撃が)小さくなっていた」と語っていた。

 

 大田の長距離砲としての資質に早くから目を付けていたのが監督の栗山英樹だ。トレードが決まった際には「素材でいえば(中田)翔のようなタイプ。右打者として、4番でも勝負できると思う」と絶賛していた。

 

 期待されながらも、巨人時代には芽が出ず、パ・リーグに移ってから本領を発揮し始めた例としては、近鉄などでプレーした吉岡雄二が思い浮かぶ。

 

 90年にドラフト3位で帝京高から入団した吉岡は、92年オフに正式にピッチャーから内野手に転向した。高校時代から飛距離には定評があった。長嶋茂雄監督(当時)は「打球に品がある」とベタ褒めだった。94年にはイースタンながらホームランと打点の2冠に輝いた。

 

 だが、なかなかチャンスが巡ってこない。「ベンチにばかり座っているので腰が悪くなった」と本人は自嘲気味に語っていた。

 

 97年に近鉄にトレード、01年には26本塁打を放ってリーグ優勝に貢献、“いてまえ打線”の一翼を担った。打撃の制約が少ない近鉄の野球が吉岡の肌には合ったようだ。

 

 大田に話を戻せば、ある意味、彼の野球人生は今から始まったようなものである。潜在能力の埋蔵量は、計りしれない。

 

<この原稿は『週刊大衆』2017年6月12日号を一部再構成したものです>

 


◎バックナンバーはこちらから