郡紘平(専修大学サッカー部/徳島県徳島市出身)第3回「心にかかった霧」
郡紘平は小学生の頃から四国のトレセンに選ばれていた。小学校卒業後の進路を徳島ヴォルティスジュニアユースに定めた。郡は四国の精鋭に選ばれるほどの実力の持ち主。Jリーグの下部組織に進むのは当たり前と言えば当たり前である。兄が一足先に徳島ジュニアユースに入団していたのだから、なおさらだ。
<2017年6月の原稿を再掲載しています>
父・寛之は当時をこう振り返る。
「紘平は四国のトレセンに選ばれて自信もついてきていました。そんな中で進路はどうしようか、という時にせっかく徳島にはJリーグのチームがありますからね。チャレンジをしてみようという話になりました」
Jリーグの下部組織ならば土のグラウンドではなく芝生のピッチでプレーができる。対戦相手は当然、他のJリーグの下部組織や強豪校だ。環境面は申し分ない。充実した3年間を送れたのだろう。そのことを訊くと郡は「中学の時は全然ダメだったですね」と表情を曇らせた。
意外な返答に私は目が点になった。四国トレセンに入る実力がありながら、クラブチームでは試合に出場できなかったのだろうか。「いや、試合には出ていました」と郡は言う。ジュニアユースでもトップ下が主戦だった。
腐っていた中学時代
出場機会に恵まれなかったわけではない。慣れ親しんだポジションでのプレーを任されていた。そこに何が不満だったのか。
「では、なぜダメだったの?」と私は訊ねた。すると、郡は難しそうな顔をしながら「まぁ……腐っとったですね」と、こぼした。
腐っていた――。その頃のことを父・寛之に話を訊くと、「中学の時はサッカーのパフォーマンスが一番悪かった時期」と語り、こう続けた。
「中学2年生の時だったと思います。サッカー自体が面白くなかったのかな、と。紘平の試合を観戦していて、そう感じました。やる気がなさそうと言いますか……。“もう、やめてしまえ!”とも言いましたね」
当時の郡に何があったのだろうか。再び父の回想。
「中学1年生の時は、西日本のトレセンに2回ほど選ばれていたんです。しかし、2年生になると選ばれなくなってしまったんです。本人的には“なんで?”と思うところがあったのかもしれません。まぁ、それだけではなかったんでしょうけど、いろいろなことが重なって面白くない時期だったんでしょう」
当時の郡は「選ぶ側の観る眼がない」としか思えなかったという。自分の実力に自信があった何よりの証拠である。だが、本人はこの時期をしきりに反省している。「(中学時代の自分は)クソ野郎でした(笑)。今、思い返せば、やるべきことはまだまだたくさんあったんです。それに自分に足りないところもいっぱいありました」
私はこの話を聞いた時、目の前の19歳の青年に尊敬の念を抱いた。この若さで素直に自分の過ちを認め、改め、人として成長しているではないか。清らかな心を持った素晴らしい青年である。
ジュニアユースでは3年間、出場機会を得ていた。クラブ側は郡の将来性を買い、攻撃の中心として起用した。クラブでのプレーは順調ながら、精神的にはもがき苦しんだ時期だった。郡は中学3年の早い時期にユース昇格のオファーを蹴った。何かを変えたかったのだろう。彼は新たな道を踏み出す決心をする。徳島市立高校への進学を選んだ。この選択が吉となり、郡の心の中にかかった霧を晴らすことになる――。
(最終回につづく)
1998年5月3日、徳島県徳島市出身。小学校1年から本格的にサッカーを始める。助任サッカークラブ-徳島ヴォルティスジュニアユース-徳島市立高校-専修大学。攻撃的なポジションならどこでもこなせるアタッカー。シュート、ドリブル、パスの攻撃の三拍子を高いレベルで兼ね備える専大サッカー部期待の1年生。身長167センチ、体重56キロ。
(文・写真/大木雄貴)