第二回加工済み 郡紘平は徳島県徳島市で生まれ育った。3歳上の兄と遊ぶ活発な少年だった。郡の幼少期を父・寛之はこう述懐する。

 

「兄が小学校にあがったくらいの時に鉄棒の練習をしていたんです。すると隣で簡単そうに紘平ができてしまった。(兄が)自転車の練習をしていても、すぐに横で紘平が乗れてしまうんです(笑)。昔から運動能力は長けていましたねぇ」

 

<2017年6月の原稿を再掲載しています>

 

 父・寛之は地元のサッカー少年団の助任サッカークラブのコーチ。郡の兄も小学校へ上がると助任SCに入団した。父も兄もいる環境に郡が身を置くのは、ごく自然なことだった。郡は懐かしそうな顔で、サッカーを始めたきっかけを語った。

「兄貴が小学校の大会で金メダルを獲ったことがすごく羨ましかった。それで“自分もメダルを獲りたい”と思ってサッカーをやりたくなったんです」

 

 こうして郡も小学1年で助任SCの門を叩く。小学生はボールに慣れるところから始める。弾んでいるボールをしっかりコントロールしたり、正確にキックできるように指導されるのだ。元々運動神経の良かった郡にとって、チームで1人抜けた存在になるのに、そう時間はかからなかった。

 

 父・寛之は「飲み込みは早かった。機敏だったし、動きが(他の子供とは)違いました。ボールを扱うのがすごく好きでね。リフティングをずっとやっていましたね」と当時を振り返る。

 

理路整然とプレーの根拠を語る小学生

 

 小学校低学年のサッカーにポジションはあってないようなものだ。ボールに群がり蹴り合っていく。いわゆる団子サッカーである。だが、郡は「団子のサッカーが嫌いだった」と口にする。他の小学生より冷静な子供だった。

「こんなに団子になっていて、あっち(遠い位置)に人がおって、“なんでパスせんのだろう……”と、ずっと思っていました」

 

 小学生の頃からサッカーの状況判断は冴えていた。それがゆえにコーチの父・寛之は「指導者としては、やりにくい面も持っている子でした(笑)」と語り、こう続けた。

「団子サッカーもサッカーを教える中で必要だと思うんです。体の接触に慣れながら、ボールを取られずに密集を抜け出す術を身に付けて欲しかった。ところが、紘平の場合は“なんで団子にならなきゃいけないの?”と自分の中で理屈を持っている子でしたね」

 

第二回2加工済み 小さい頃から状況を見極める力を有していた郡は、試合後に、なぜあの時にこのプレーを選択したのか、という理由をつらつらと説明できる少年だった。専修大学サッカー部監督の源平貴久が褒めていた判断力は小学生の段階で自然に養われていたのだ。

 

 高学年になると、負けず嫌いな郡は自分のイメージ通りにいかないと、周りに当たることもあった。しかし、最上級生になる頃には、落ち着きが出て黙々とプレーをするようになった。

 

 試合中に大人びた様子を見せていた郡だが、サッカーから離れればヤンチャを絵に描いたような元気な少年だった。父・寛之に「小学生の彼に対して一番怒ったことは何ですか?」と訊ねると、こう返ってきた。

「怒ったエピソードねぇ……。うーん、優良児ではないので悪いこともいっぱいしていました(笑)。先輩のスパイクに砂を満タンに入れて帰ってきたりと、いらんことをする子でしたよ」

 

 ピッチの外に出れば、子供っぽいところもある。周囲からは可愛がられるタイプだったという。インタビュー中に見せる屈託のない笑顔には愛嬌があり、それも頷ける気がした。

 

 父・寛之の元でプレーヤーとしてすくすくと育った郡は、四国のトレセンに選ばれるまでになった。そして郡少年が進路先に選んだのは、徳島ヴォルティスのジュニアユースだった。そこで彼は、少し難しい時期を迎える――。

 

(第3回につづく)

 

プロフ用(加工済み)郡紘平(こおり・こうへい)プロフィール>

1998年5月3日、徳島県徳島市出身。小学校1年から本格的にサッカーを始める。助任サッカークラブ-徳島ヴォルティスジュニアユース-徳島市立高校-専修大学。攻撃的なポジションならどこでもこなせるアタッカー。シュート、ドリブル、パスの攻撃の三拍子を高いレベルで兼ね備える専大サッカー部期待の1年生。身長167センチ、体重56キロ。

 

 

(文・写真/大木雄貴)

 


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