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 千葉ロッテの井口資仁選手が今季限りの引退を表明しました。井口選手は現在、42歳で球界最年長です。彼の引退にあたって1997年、井口選手とともに福岡ダイエー(現ソフトバンク)に同期入団した柴原洋さんに話を聞きました。大学野球はライバル、プロに入ってからはチームメイトとして接した柴原さんは井口選手について、こう語りました。

 

 六拍子揃った選手

「東都の井口、青学の井口」の名前は九州にも轟いていました。96年、全日本大学野球選手権の決勝で私のいた九州共立大は青学と対戦したんです。井口にホームランを2本打たれて4-9で敗れました。「レベルが違うな」と痛感したのを覚えています。

 

 井口とは対戦もしたし、大学選抜では一緒にあちこちに遠征して色々と話をした仲です。井口、清水(将海・ソフトバンク1軍バッテリーコーチ)、倉野(信次・同投手統括コーチ)とは「プロになりたいよな」「プロに行ったらどうする」「いずれはメジャーリーグか」なんて他愛もない話題で盛り上がったものです。まさか同じチームにドラフトで入るとは思ってもいませんでしたが……。

 

 井口を大学時代、そしてプロに入ってからも見ていてすごいなと思ったのは、何事にも動じない気持ちの強さです。そして体も強いし、技術もある。心技体すべてが揃っているんですね。プレーは攻走守全て揃ってるから三拍子どころか六拍子ですよ。

 

 井口は1軍デビューの試合(97年5月3日・対近鉄)でプロ初ホームランを満塁の場面で打ってますよね。そしてダイエーが初優勝を決めた試合(99年9月25日・対日本ハム)では決勝ホームランを放ちました。今で言えば「持ってる」ということなんでしょうが、彼の場合はそういう運だけではありません。ああいう場面で結果を残すには、メンタルが相当に強くないと無理なんですよ。プレッシャーに動じることのない彼の心の強さを物語っていると思います。

 

 当時のダイエーは小久保(裕紀)さん、松中(信彦)さんなど個性の強い選手が多かった。その中でも井口は同年代の中心になって肩書きとは関係なくリーダーシップ、キャプテンシーを発揮していましたね。大学時代からそう思っていましたが、彼は生まれながらの中心選手、キャプテンタイプでしたよ。

 

 足から衰える

 私は37歳でプロ野球を引退しました。どのプロ野球選手も一緒だと思いますが、やはり30歳を過ぎると徐々に疲れが取れにくくなってくるんですよ。35歳を超えるとさらにその傾向が顕著になります。

 

 衰えを一番実感するのは足の運びです。自分自身の全盛期と比べると守備範囲が狭くなって、「動けてないな」と感じるようになります。そして「このボールが捕れないのか……」と思うようになって段々と引退の二文字がちらつき始めるようになるんです。

 

 井口も当然、年齢による衰えはあったと思います。ポジションが一塁になったり、DHでの起用が増えたのも当然ですよね。でもそれを乗り越えて40歳を過ぎても現役を続けてきたんですから本当に尊敬します。

 

 私は腰を痛めるという致命的な負傷もありました。その点でも井口は大きな故障がない、体の強さもプロ野球選手としては大きな財産でした。

 

 最後にもうひとつだけ。井口が長く現役を続けられたのは、野球が好きだったということも関係あるでしょう。まあプロ野球選手になるくらいですから、どの選手も野球は好きなんですが、その中でも井口は本当に野球が好きでしたよ。大学時代もプロに入ってからも、好きな野球だからこそ一生懸命、そして楽しくプレーしているのが見ていて分かりましたから。

 

 あれだけ野球が好きなら、野球の神様にも愛されますよ。いい場面で打席が回ったのも神様のおかげでしょうね。それで結果を出すんだから神様も井口に惚れたんじゃないですか。通算21年、野球の神様に愛された野球人生だったでしょうね。引退の連絡はまだ来ていませんが、その時は「おつかれさん!」と言ってあげたいです。

 

<柴原洋(しばはら・ひろし)プロフィール>
1974年5月23日、福岡県出身。地元・北九州高では九州大会ベスト8。福岡六大学の九州共立大学に進み同リーグで首位打者4回、本塁打王3回、打点王4回を記録した。97年、ドラフト3位で福岡ダイエーに入団。強肩、俊足の外野手として活躍し、ホークス一筋で15年の現役生活をまっとうした。通算打率2割8分2厘。ベストナイン2回(98年、00年)、ゴールデングラブ賞3回 (00年、01年、03年)。


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