東京ヤクルトの伊勢孝夫ヒッティングコーディネーターは現役時代、その勝負強さから“伊勢大明神”と呼ばれた。コーチになってからは「技術面は中西太さん、頭脳面は野村克也さんから教わった」と本人が明かす打撃指導で、選手個々の能力を伸ばし、ヤクルトや近鉄、巨人で優勝に貢献している。2010年途中からは再びヤクルトのコーチを務め、今季からは1、2軍を巡回してチーム全体の打力アップに力を尽くす。68歳の名伯楽に二宮清純が選手の育成法を訊いた。
(写真:ヒッティングコーディネーターの肩書は「巡回コーチだとカッコ悪い」と自らが希望したもの)
二宮: ヤクルトは2年連続ホームラン王のウラディミール・バレンティンに、ラスティングス・ミレッジ、畠山和洋とクリーンアップは強力ですね。和製大砲の畠山も、だいぶ頼れる存在になってきました。
伊勢: 彼は練習の時のバッティングはすごくいい。でもゲームになると、どうしても打ち方が変わってしまうんですよ。だんだんアウトステップして打つようになっていく。

二宮: つまり、体が開いてしまうというわけですね。
伊勢: ええ。どうしてもインサイドのボールが気になってしまうんです。僕もそうでしたが、バッターはインコースを気にし始めると、フォームが崩れていく。まぁ、最近のプロ野球はインコースを巧く打つ選手自体が少なくなってきていますよね。その課題さえクリアすれば、彼はもっと打てるはずです。

二宮: 伊勢さんは各球団でたくさんのバッター指導に携わってきました。長いコーチ経験の中で、最初に出会った頃と比べて、よく育ったなと感じた選手は?
伊勢: 一番、印象に残っているのは古田(敦也)かな。1年目のキャンプで野村さんから、「どのくらい打てると思う?」と聞かれたので、「まぁ、良くて打率.250でしょう」と答えました。案の定、最初は.250でしたが、次の年には首位打者を獲ったのでビックリしました。

二宮: 古田さんにはどんなアドバイスを?
伊勢: 前の足がステップした時のヒザについては、やかましく言いましたね。ヒザが割れると力が逃げてしまう。だから、「しっかり踏ん張れ」と。

二宮: キャッチャーゆえに野村さんから教わった配球の読みもうまくバッティングに活用していましたね。当時のヤクルトは野村さんが連日ミーティングを開いて、狙い球の絞り方やカウント別の対処法を“講義”していました。古田さんに限らず、現在の土橋勝征コーチ、飯田哲也コーチ、宮本慎也選手としぶといバッターが多かったですね。
伊勢: 試合になるとベンチも一緒になって戦っていましたよ。キャッチャーの構えを見て、一塁側から声を出す。たとえばインサイドに構えたら、「さぁ、行け」とか、スライダーが来ると分かったら、「センター狙え」とか。そうやって球種やコースをバッターに伝達していました。相手キャッチャーもそれがイヤだから、ミットを早く構えなくなる。そうなるとピッチャーは投げづらくなるので、失投が増える。それをまた狙い打つんです。

二宮: 野村さんの言う“無形の力”で相手に勝つ。これが戦力的に決して恵まれていなかったヤクルトの強さの秘密だったんですね。
伊勢: いやいや、どれだけ助けになったかは分かりませんけどね。フォークボールだってキャッチャーの構えをみれば分かります。今もそうですが、フォークを要求する時、たいていのキャッチャーはコースに構えない。だから追い込んで真ん中に構えたら、「ローボール来た!」と声を出す。
(写真:近年の選手の特徴として「(右バッターなら)右手首を柔らかく使えないため、バットコントロールが下手になっている」と語る)

二宮: ただ、今は打席に入っているバッターに球種を伝達する行為が申し合わせで禁止になっています。
伊勢: だから試合中は「頑張れ!」「さぁ、行こう!」とかバッターに声をかけるくらいしかできない。球種やコースが分かっても口に出せないのはもどかしいですよ。ベンチにいてもコーチの仕事がない……。

二宮: 指導者として選手を育てる上で一番大切なことは何でしょう?
伊勢: それが分かったら苦労しないですよ。よく「長所を伸ばすほうがいい」とか「欠点もちゃんと矯正したほうがいい」とか言われますが、どちらがいいか僕も未だにつかめていない。ただ、たとえば1軍であれば野手は16、17人います。どの選手も同じやり方では通用しない。16人いたら16通りの教え方をしなくてはいけないと思っています。

二宮: どんな選手にも対応できる引き出しの数がコーチには求められると?
伊勢: やはり選手によってタイプは異なります。1、2番の選手とクリーンアップとでは指導方法が変わってくる。アマチュア時代は、ほとんどの選手がクリーンアップでも、プロに入ってそのまま中軸を打てるのは一握りしかいません。だから、コーチは最初に選手の適性を見極め、方向性を決めてあげることが大事ではないでしょうか。本人とコミュニケーションをとりながら「君は1番バッターを目指してやったほうがいい」と意識付けをする。進むべき道を示さずに、いくら練習させてもプロでは生き残れませんから。そう考えると、指導者にとって大切なことは何かと問われたら、“愛情”なのかもしれませんね。

二宮: なるほど。テクニックよりも、まずは選手のことをどれだけ真剣に思えるか、ですね。
伊勢: 今はヤクルトに雇ってもらっていますが、このチームの選手が良くなるために、どれだけ愛情を注げるか。選手が育つには時間がかかります。それでも、この選手をなんとかしてあげたい。なんとか1軍に上げてやりたい。1軍に上がったら、打率を1分でも1毛でもいいから良くしてやりたい……。そういう思いがなかったら、1時間も練習に付き合ってボールを投げ続けるなんて、しんどくてできません。もちろん生活の糧ではあるんでしょうけど、仕事という感覚だけではコーチは続けられないと思いますよ。

<現在発売中の『小説宝石』2013年5月号(光文社)ではさらに詳しい伊勢さんのインタビュー記事が掲載されています。こちらも併せてご覧ください>