皆さん、はじめまして! ホークスの元プロ野球選手、松修康と申します。今回から2カ月に1回、「白球徒然 ~HAKUJUベースボールスペース~」のコラムを執筆することになりました。こういうことは初めてですが、皆さんに楽しんで読んでもらえるように一生懸命書いていきたいと思います。優しい気持ちで見守りながら読んでくださいね。


 まずは、簡単な自己紹介から。私は神奈川県横浜市で生まれ、中学まで横浜で過ごし、高校は栃木の宇都宮学園(現・文星芸術大学附属)に進み、そして東北福祉大学に進学しました。98年秋、ドラフト2位で福岡ダイエー・ホークスに指名されてプロ入りを果たし、現役生活は7年でした。引退後は横浜ベイスターズで打撃投手を2年、北海道日本ハム・ファイターズで5年、お世話になりました。日本ハムから解雇されたことが自分の人生を大きく変えるきっかけになったので、少し長文になりますが詳しく書かせていただきます。

 

 2012年の日本シリーズが終わり日本ハムでも戦力外通告が始まりました。すぐに自分の名前が呼ばれることはなく安心していたところ、翌日マネジャーに呼ばれて、解雇通告を受けました。マネジャーに呼ばれた瞬間にクビを覚悟したので、実際に解雇通告されたときは信じられないといよりも、少し冷静に受け止めることができました。

 

 解雇通告後に家族に連絡すると予期せぬことにビックリして無言でした。私も解雇を受け入れたつもりでしたが、時間が経つにつれ、だんだんと不安が増し、心が落ち着かない状態になっていきました。家族の元に戻ろうと千歳空港に向かいましたが、何故か涙が止まらなくなり搭乗口までどうやって行ったのかもよく覚えていません。

 

 また、家に帰るのが急に怖くなり、「帰らなきゃ」という気持ちはあるのですが、全く動けなくなり、何度も飛行機の時間変更をする始末……。結局、知人からの電話で飛行機に乗ることができ、そして自宅でいつもと変わらない笑顔で家族が迎えてくれたことにすごく救われました。

 

 解雇された後、次の仕事のことを考えてプロ野球関係者に連絡をした数日後、娘の幼稚園の卒園式がありました。娘が通っていたのはスポーツに特化した幼稚園で、三点倒立、鉄棒、とび箱などを披露し、日頃の成果を発表するという変わった卒園式でした。

 

 娘からは、「いつも失敗せずにできるよ!」と聞いていたので安心して観ていたら、思っていたより全然できてなくて、何回もやり直していました。とび箱は最後まで飛ぶことができず、こっちに来て「できない、いつもできているのにできない。私、できる子なのに……」と泣き出す始末。父親としては「頑張れ」としか言えず、でも娘は泣きながらとび箱に向かって走り、ようやくクリアすることができました。大勢の人から大きな拍手をもらい、安堵の表情をしていたのが今でも忘れられません。

 

 そのとき、自分がクビになって落ち込んでいる姿を見せていたのが、娘の心にも影を落としたのではないかと感じ、申し訳ない気持ちになりました。でも娘が何度失敗して挑戦している姿を見て、いつまでも落ち込んでいるんじゃなく、父親の私も怖がらず自分の可能性にチャレンジしないといけないと勇気をもらった瞬間でもありました。

 

 プロ野球に未練を残しつつも、娘の姿に感動し、新たなチャレンジも視野に入れていたときに連絡をいただいたのが、現在の上司でもある田口竜二さん(白寿生科学研究所人材開拓課長)でした。田口さんはホークスの先輩であり、自分が入団したときは2軍のスタッフとして働いていました。ホークスを離れた後、「東京の会社に勤めている」という話は以前から耳にしていました。

 

 野球とは別の道へ

 久しぶりに球界の先輩に会うと、自分の感情を抑えることができずに延々と愚痴を言い続けていました。田口さんは小一時間は黙って聞いてくれていたと思います。私の愚痴を一通り聞いた後、こう言われました。

 

「松はこれまで通り、もう2度と輝くことができない野球の世界で生きていくのか、それとも野球ではない人生で自身を輝かせるのか。それを真剣に考えて、輝く自分を探すというなら連絡してきて」

 

 この言葉を聞いた後、帰りの電車の中で頭の中に新しい道が描かれました。今までは野球しかない1本道しかなかったのが、道がふたつに分かれて、光り輝くもう1本の道ができたのです。そこからの日々は将来を前向きに考え、光り輝く道にはどんな出来事が待っているのだろうか、とワクワクドキドキしながら過ごしていました。

 

 最初に会ってから1週間後、田口さんに「新たな人生、輝く自分でありたいです!」と連絡を入れ、再度、会うことになりました。そこで紹介されたのが、白寿生科学研究所の原浩之副社長(当時・営業本部長)でした。

 

 原副社長は仕事がタイトで忙しい毎日を過ごしているにも関わらず、すごく楽しそうにしていて、話すこともすべて前向き。このことに衝撃を受けました。野球の世界で楽をしていた自分を振り返り、「今までの自分ではダメだ」と考え、新たな事に挑戦して原副社長や先輩の田口さんのように前向きな人生を過ごし、成長したいと強く思った瞬間でもありました。

 

 この数日後のことでした。ある球団から打撃投手のお話をいただきましたが、きっぱりお断りをしました。当然、家族や周りの人から「何で?」「馬鹿だな」と言われましたが、もう「新しい世界で輝く!」と決めていて、そう腹を括っていたからです。もし次も野球の世界を選択していると、必ずまたクビになる。そしてまた落ち込み、愚痴を言い、生活のために人に頼み込む……。それを繰り返す人生はイヤだったので、新たな道で失敗したとしても、ちゃんと決断して一歩踏み出して行けば絶対後悔しない。そう決めた自分を信じることにしたんです。

 

 さて自分のセカンドキャリア経験を長々と話しましたが、セカンドキャリアの一番の問題は選手を取り巻く環境なのかもしれません。ひとつの道しか考えさせない、野球しかないと思わせる指導や環境が良くないのではと感じています。プロ野球選手という職業には必ず終わりがあります。それが終わった後、どんな選択をすれば人生で成功できるのかを考える環境があれば、セカンドキャリアで困る選手が少なくなると信じています。

 

 今、セカンドキャリアに困っている人がいれば、私は「マインドセット」をして欲しいと強く思っています。これまで生業としていた野球という競技をもう過去のものとして、未来のためにビジョンを明確にし、一歩踏み出すために何をすべきかを考える。常に自分と会話し、自分と真剣に向き合い、目指す道を突っ走って欲しいと思います。

 

 最後に、自分のセカンドキャリアの目標は、人の役に立って感謝されることです。

 

「松さんに会って人生が変わりました」「松さんのおかげです」と言ってもらえる人になることが、野球界、そして自分に携わっていただいた方への恩返しになると考えています。

 

「ありがとう!」という感謝の言葉の意味を常に考え、いろいろなことを学んでいくのが目標です。初回ということで長文となりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。私の次回登場は6月です。これからも楽しんでもらえるコラムが書けるよう、精進していきます! よろしくお願いいたします。

 

<松修康(まつ・のぶやす)プロフィール>
1976年7月23日、神奈川県生まれ。中学時代まで地元・神奈川でプレー。高校は宇都宮学園高校(現・文星芸術大学附属高校)に進み、卒業後は東北福祉大学へ。99年、ドラフト2位で福岡ダイエー(現ソフトバンク)に入団した。00年10月、オリックス戦でプロ初登板。01年6月10日、オリックス戦で初先発し、6回1/3、1失点で初勝利。これがプロ唯一の勝ち星となった。04年、左の中継ぎとして自己最多の40試合に登板。05年、現役を引退。横浜DeNA、北海道日本ハムの打撃投手を経て白寿生科学研究所へ入社。現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアを支援する。


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