小野仁(白寿生科学研究所人材開拓課)第53回「10年以上遠回りした”セカンドキャリア”」

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 皆様、はじめまして。白寿生科学研究所・人材開拓課の小野仁と申します。元プロ野球選手で、現在は前回このコラムを執筆した松修康とともに弊社への人材発掘、元アスリートのセカンドキャリアサポート、学生就職支援活動を行っています。


 今回と次回の2回に分けて、私自身のセカンドキャリアと私が考えるアスリートのセカンドキャリアについてお伝えしようと思います。

 

 魚市場など職を転々

 私がプロ野球選手でなくなったのは、忘れもしない2003年10月3日、15時頃のことです。近鉄の本拠地・藤井寺球場にて来季に向けてトレーニングをしている最中に別室に呼ばれ戦力外通告を受けました。息切れをしながら「ハァハァハァ、はあ……」と実感もなく、戦力外という言葉自体も飲み込めない状態でした。このとき私のセカンドキャリアがスタートしたのでした。

 

 セカンドキャリアとは「第二の人生における職業」を指しています。でも私自身はプラスをイメージさせる言葉だと捉えていませんでした。近年は様々なメディアを通じてセカンドキャリアがフォーカスされ、社会にも認識されて来ましたが、世間が考えるよりも現実は厳しいと感じてしまいます。それは私自身が"セカンドキャリア"の厳しさを身を持って知っているからです。

 

 03年オフに戦力外通告を受けた後、マイナーリーグと契約したり合同トライアウトを受験するなど、05年まで私はNPB復帰を目指して頑張ってきました。でもどこの球団からも連絡はありませんでした。そこでようやく野球を諦める決断をしたのですが、そこから昨年までの間で様々な職を経験しました。

 

 人生で初めてアルバイトをした魚市場の配送から始まり、床清掃、宅配便、椅子工場での製作作業、飲食店など、細かいものも含めると8回ほど転職を繰り返してきました。

 

 いろいろな職を経験しましたが、本当に自分自身がやりたいこと、やるべきことという選択ではありませんでした。決して手を抜いたことはなく、いつも全力で業務を果たしてきましたが、ただの食い扶持稼ぎでしかなかったので、今思い返すと毎日、ルーティンをこなしているようなものでした。

 

 そこには、自分がどうなろうとしているのかも分からず、また自身の本質を見極め、これからどう生きていくべきなのかを考えることもありませんでした。結果、自分の"セカンドキャリア"は成功とは決して言えないようなものだったのです。

 

 夢や目標があるからこそ……

 私には野球が全てでした。野球そのものが私の人生と言っても過言ではないくらい、すべてを捧げていました。だからこそどんなことがあっても耐えることができ、努力を惜しまず、継続し続けられました。

 

 思いがあるから行動できる。つまり心と行動が比例しているんだということは、野球を辞めた後の経験で気付くことができました。人生を捧げてきた野球が突然なくなり、ぽっかりと穴が空いた心をその場しのぎの職業で埋めてしまう。そうした選択をしてきた自分が今となって言えることは、もっと早くセカンドキャリアを真摯に捉え、野球に代わる何かを見い出せれていれば、引退後の10年以上という怠惰な時間はもっと短くなったはずだということです。

 

 私のセカンドキャリアの問題点は、人生のビジョンを明確にせず、ただ生活のため、お金のためだけに仕事を選択したことです。そこには目標や目的のないままこなすだけの日々の繰り返し。やりがいは皆無に等しく、それが8回の転職につながり、何も生まなかったと言っても過言ではありません。

 

「人は夢や目標があるからこそ日々行動する、努力する、我慢できる」。これはセカンドキャリアを考える上でとても大切なことだと痛感しています。

 

 白寿生科学研究所で働くことになり7カ月。こうしたコラムを書く機会を得て、私の自慢にもならない恥ずかしい過去をお伝えすることが良いことなのかどうかは分かりません。でも野球やその他の競技を終え、セカンドキャリアを考えながらも、その一歩をどう踏み出すのか分からない元アスリートは大勢います。スタートラインに立ちながら「とりあえず」「なんとなく」「良い話だから」など、目標や目的のないまま前に進んでしまう方々に少しでも気付いてもらえたらと思い書き記してみました。

 

 実際に仕事の現場でも、こうした自身の経験を伝え、マインドを整える重要性も話しています。そうしたことが元アスリートがより良い人生を歩むためのサポートになればと思っています。

 

 さて長々と書いてきましたが、こうした紆余曲折を経てたどり着いた私自身の本当の"セカンドキャリア"は、プロ野球引退から10年以上経ってようやくスタートを切ったところです。まだまだ勉強不足、努力不足を感じる場面も多い毎日ですが、多くの方々に恵まれ、いろいろな出会いやご縁があり成長できるきっかけをいただいています。きっかけを生かすも無駄にするのも自分自身なので、すべて日々成長するための肥料と考え、常に前向きに一歩ずつ積み重ねていきたいと思っています。そして、このコラムを書きながら、もうひとりの自分に語りかけている部分もあり、身が引き締まる思いです。

 

 さて、今回はここまでとさせていただきます。次回は「私の考えるアスリートのセカンドキャリア」について書こうと思っています。締めくくりは、秋田人なので秋田弁にてお伝えします。「まんずしったげ頑張んねばダメだ!!」。

 

 では、また次回、お目にかかりましょう。

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。

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