前回は広島カープの誕生以前にプロ野球参入を目指した「鯉城園倶楽部」について取り上げた。終戦直後に財を成した広島の一企業が作ったこのノンプロチームは都市対抗野球大会で健闘し、一時はプロ参入も視野に入れていた。詳しくは前回のコラムを参照していただきたい。


 野球に関わった者ならば、一度は夢見るのがプロ野球の世界である。まばゆいばかりのカクテル光線の下で生まれるドラマは、最高のエンターテイメントだ。"プロ野球"という言葉の持つ磁力は、一度でもボールを握った者を引きつけてやまない。

 

 プロ野球は野球人にとって共通の夢なのだ。とはいうものの、"軟式野球チーム"がプロ参入を目論んでいたと聞けば誰もが驚くだろう。軟式チームながら硬球に握り替えてプロ参入を目指すとはどれほどの強豪であったのか、と想像もふくらむ。しかもそのチームが原爆投下で廃墟となった終戦直後の広島に生まれたとなれば驚きは増すばかりだ。

 

 話はカープが誕生する3年以上前のことになる。今回の「カープの考古学」は、荒廃した広島で生まれた軟式野球チーム「金子物産」(*1)について探ることにしよう。

 

 広島の軟式野球

 古くから野球王国と呼ばれてきた広島には、軟式野球に関するドラマも少なくない。

 

 記憶に新しいものをあげれば、2014年の第59回全国高等学校軟式野球選手権の準決勝だ。

 

 広島の崇徳学園と古豪・中京(岐阜)の一戦は互いに譲らぬ熱戦となり、ゼロ行進のままサスペンデットゲームを繰り返し4日間に及んだ。勝負は延長50回、中京が3点をあげて決着がついたが、この試合をひとりで投げ抜いた崇徳のエース・石岡樹輝弥(現福岡大準硬式野球部)は、一躍時の人となった。投げ勝った松井大河(現中京大準硬式野球部)とともにプロからも注目される存在だ。

 

 カープで先発、リリーフと大車輪の活躍をみせたサウスポーの大野豊も軟式野球出身だ。出雲商(島根)で硬式野球部に所属。卒業後は出雲市信用組合に就職し、軟式野球部でピッチャーを続けた。1977年、カープにテスト生として入団。以後22年、通算148勝138セーブをマークした。大野は「サラリーマンの星」と呼ばれファンに親しまれた。

 

 カープにまつわる軟式のドラマはまだある。

 

 昭和26年夏、広島県庁の軟式野球部からプロへ転身したのが渡辺信義だ。渡辺はカープ入団2年目の昭和27年、6勝をあげた。前年暮れから起きたエース長谷川良平の名古屋軍(現中日)による引き抜き騒動の影響で奮わない投手陣の中、孤軍奮闘。カープの救世主となった。

 

 渡辺は軟式時代はオーバースローだったが、ストレートがシュート回転して抑えがきかない荒れ球が多かった。「これではいかん」と当時の石本秀一監督がアンダースローで投げることを指示しフォームを変更。結果、シーズン後半にはエースと呼ばれるまでに成長した。

 

 さて、前置きが長くなったが、そろそろ本題に入ろう。プロ野球参入を目指した軟式野球チーム「金子物産」が活躍したのは、昭和21年ころのことだった。

 

 母体となったのは金子精密製作所。昭和12年に創業し、現在は金子製作所と社名を変えたが、現社長・正治の父・勝(故人)とその兄弟が創業者だ。創業当時、拠点は広島市の中心から約10キロ東の安芸郡船越町に置かれ、機械製造では欠かせない限界ゲージなどを作っていた。

 

 昭和12年といえば中国大陸で戦火が上がり、さらに大戦へと向かうきな臭い雰囲気が国内に漂い始めたころである。同社は呉市の海軍工廠からの指定工場に認定され、魚雷の信管や機銃弾なども手掛けていた。戦時中は軍需によって成長し、戦後はいち早く新事業を拡大して一旗あげた。

 

 終戦後、こんなエピソードがある。海軍工廠からの発注がなくなり、新事業を開拓しなければ会社は立ち行かなくなる。勝は心機一転、会社を広島市に移そうと、原爆で荒れ果てた市内を彷徨っていた。そのときのことであった。

 

 廃墟で見た1本の草

 金子勝の子息、金子正治に会って話を聞いた。

 

「父がガレキや資材をどかして地面を見たら草が生えていた、というんです。その瞬間に"いけるぞー"と大声を張り上げたと聞きました。原爆投下直後の広島に草が生えていた。この土地は死んじゃいない、広島でも十分に事業ができるんじゃないか、となったんです」

 

 このことを語る彼の口調は興奮気味であったが、おそらく息子にこの話を聞かせた父の勝も同じ様子だったと容易に想像できる。被爆後の広島の惨禍を知っていてれば、それも当然だろう。「広島には向こう70年草木も生えない」と言われていたが、新しい事業の本拠地を探しに行き、そして広島の大地に根を張る1本の草を見つけたのである。これ以上の吉兆はなかった。

 

 1本の草に勇気をもらった勝たちは、広島鉄道局の指定工場の受注を得るなど、新規事業を次々と開拓した。戦中にドイツの最新魚雷技術を学ぶなど技術の進化に最前線で触れていた彼らは、時代を先取る嗅覚にも長けていた。戦後、バラック住まいが当然だった広島では、冬場の寒さをしのぐ練炭は生活必需品だった。ならばと練炭事業部門を立ち上げた。その事業部門は「鯉城煉炭」と呼ばれていた。

 

 さらに好調な事業で得た資金を元にして、北海道で海産物を買い付ける物産事業も展開。海産物専用の倉庫や社屋もあったという。まさにイケイケドンドンである。当時のことを正治はこう伝え聞いている。

 

「父たちはリュックの中に現金を詰めて、電車に乗って、北海道にまでコンブなどの買い付けに行ったようです。リュックの中身ですか? 現金で100万円も入っていたと聞きましたよ」

 

 戦後の動き出しが早かった分、金子精密製作所の事業は順調に成長した。本業がうまくいく中、勝の兄である豊(当時社長)が好きだった野球部をつくることになった。この野球部については「カープ30年(冨沢佐一・中国新聞社刊)」にこう書かれている。

 

<戦後、野球好きの豊らが軟式野球チーム(チーム名はのちに金子物産)を作ると、岩本義行、角谷松男ら逸材が集まり、強豪チームにのし上がっていった>

 

 岩本義行(*2)は戦前の南海軍で強打として鳴らし、のちにプロ野球の東映や近鉄で監督を務めた。角谷松男(*3)はプロ野球経験はないが、金子物産の後はパ・リーグ審判員となり1000試合以上で審判を務めた。その他、戦前、南海で内野手だった前田貞行(*4)らがチームの主力であった。

 

 昭和21年、終戦からまだ間もないときである。ボールが硬式だろうが、軟式だろうが、生きて野球がやれる喜びをかみしめて金子物産のナインは白球を追ったのだ。

 

 はかなく散ったプロの夢

 昭和17年生まれで当時4歳だった正治は、父や伯父たちの作ったこのチームを歓迎していた訳ではなかった。

 

「家の中に野球道具を置いておくために、家が窮屈になってしまいました。イヤだなと思っていたから、よく覚えていますよ」

 

 これは野球が好きとか嫌いではなく、幼さゆえに正直な思いだったのだろう。父、伯父たちのチームがプロ参入を目指したことについてはどう思っているのか。「カープに先がけ、プロ参入を目指したのはとてもすごいことではないですか?」と水を向けると、こう答えた。

 

「まあ、成功した話ではないので大きな声では言えません。ウチはあまりにも手広くいろいろな事業に手を出したものだから、すぐに立ち行かなくなってしまいましたからね……」

 

 いずれはプロ野球参入も、と考えていた金子物産だが、その夢ははかなく散った。戦後、日本の民主化が進む中、いち早く財を成したとしても、それは長続きせず、野球どころではなくなってしまったのだ。

 

 これと時期を同じくして共同経営であった会社を兄弟で分割することになり、勝は鯉城煉炭や物産事業などとは一線を引いた。社名を金子製作所と変えた後、戦前から続く限界ゲージを中心にした事業を継続した。やがて船舶部品加工に携わり、大手企業との取引も始まるようになった。

 

 プロ野球参入という夢は叶わなかったが、カープ誕生後、勝は幼い息子・正治の手を引いて西区観音の広島総合球場に通い、郷土のプロ野球チームに声援を送ったという--。

 

 さてカープ前史として前回は鯉城園倶楽部、そして今回、金子物産について書いた。その中で、ある共通項が浮かび上がってきた。

 

 鯉城園倶楽部、そして金子精密製作所内にあった「鯉城煉炭」という事業所の屋号。どちらも共通のキーワードは「鯉(カープ)」である。ただし前回も述べたように鯉城園倶楽部、もしくは鯉城煉炭をカープのチーム名のルーツとする文面や証言は一切ない。それでも廃墟となった広島の地で野球をいち早く再開した先人の情熱とDNAは、目に見えない形でカープ誕生につながったことは間違いない。

 

 そしてもうひとつ、両「鯉城」の共通項が「広陵」である。広陵は野球の名門校として戦前から知られ、前述の金子物産の主力を務めた岩本、角谷、前田を輩出した。さらに鯉城園倶楽部も濃人渉、門前眞佐人、岩本信一、平桝敏男ら、主力は広陵OBであった。

 

 となると気になるのは、当時、広陵と広島の野球界を二分していたもうひとつの名門・広島商である。広商OBはカープ前史には登場しないのか? それは次回、詳細を述べることにしよう。
(つづく)

 

【注釈】 *1金子物産。「カープ30年」には<チーム名はのちに金子物産となった>と記されているが、最初のチーム名が不明のためここでは文中全体で金子物産と表記した。*2岩本義行(広陵-明大-大同電力-南海-金子物産-全廣島-植良組-大陽・松竹-大洋・洋松-東映)。*3角谷松男(広陵-金子物産)。*4前田貞行(広陵-明大-南海-金子物産)

 

【参考文献】「カープ30年」(冨沢佐一著・中国新聞社刊)
【取材協力】金子正治

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)として漫画化もされた。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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