通算勝率.775――。負けないエースが、この7月にユニホームを脱いだ。元福岡ソフトバンクの斉藤和巳である。2003年、20勝をあげ、沢村賞を獲得すると、05年には開幕から当時の日本タイ記録となる15連勝。翌06年にも18勝5敗の好成績で2度目の沢村賞に選ばれた。08年からは肩の故障で長いリハビリ生活を余儀なくされ、復活はならなかったものの、それゆえに全盛期のピッチングが一層、ファンの心に焼き付いている。栄光と挫折、天国と地獄を両方味わった18年間のプロ生活を本人に振り返ってもらった。
(写真:「後悔はないが、最後に1軍のマウンドに立てなかったことだけは悔いが残る」と明かす)
二宮: 今季、東北楽天の田中将大投手が開幕から24連勝という、とてつもない記録を打ちたてました。それまでの開幕連勝記録は15。81年の間芝茂有(日本ハム)さんと05年の斉藤さんの記録です。勝ち続けている時はどんな感覚でしたか。
斉藤: あっという間に過ぎていった感じでしたね。1試合、1試合、トーナメントのような気持ちでやっていましたから、勝ってもすぐに次の試合のことが頭をよぎる。落ち着く暇なんてなかったですよ。

二宮: 03年には20勝も達成し、当時は押しも押されもせぬ球界を代表するピッチャーと誰もが見ていました。それでも余裕はなかったと?
斉藤: 必死でしたよ。当時のホークスは杉内(俊哉)、和田(毅)、新垣(渚)、寺原(隼人)と後輩に良いピッチャーがたくさんいました。アマチュアから騒がれてプロでも結果を残している。同じ土俵で勝負するには彼らよりいい成績を収めるしかない。「負けるわけにはいかへん」という気持ちでしたね。それに彼らよりも年上ですから結果以外の部分も見られている。どんな状況であれ、普段の言動や振る舞いが変わらない自分をつくろうとしていましたね。

二宮: 入団以降、肩の故障を繰り返し、1軍でもなかなか満足に投げられなかったのが、03年以降はものすごいペースで勝ち星を重ねていきました。奈落の底から一気に山のてっぺんに登った気分だったのでは?
斉藤: 20勝する前年に手応えをつかんで、ケガさえなければ2ケタは勝てる自信がありました。ただ、20勝できるとは想像していませんでしたね。結果を出すと、周囲の対応が手のひらを返したように変わる。そのことにも驚かされました。

二宮: プロは最終的には結果がすべての世界ですからね。
斉藤: 成績を残すまでは見向きもされなかったのに、勝ち始めると、僕があれこれ動かなくても周りが勝手に気をつかってお膳立てしてくれる。プロ野球は、それだけすごい世界であると同時に、怖い世界なんだなと実感しました。

二宮: 03年からのわずか4年間で64勝。これだけ勝てた要因はどこにあったのでしょう?
斉藤: 正直、勝ち星自体には目標を置いていなかったんですよね。チームのために、どれだけ貯金をつくれるか。これだけを僕は考えていました。そのためには負け数を減らすことが一番。こういった考えになったのは03年に20勝した時から。沢村賞に最多勝、最優秀防御率、ベストナインとほぼ賞をいただいたので、もう個人タイトルに関する欲がなくなってしまったんです。

二宮: 個人的には十分、満足したと?
斉藤: はい。強いて言うなら、もう1度欲しいと思ったのは沢村賞だけですね。あとは自分自身が身を削って、どれだけレベルアップできるか。チームの優勝、日本一にどれだけ貢献できるか。そのことに気持ちが移っていきました。

二宮: 1度タイトルを獲ると、さらに欲が出るのが一般的でしょうが、斉藤さんの思いは別のところにあったと?
斉藤: 個人の数字にはこだわらなくなりました。振り返ってみれば、唯一、ゴールデングラブ賞はもらえなかったんですけど、あまり物欲がないのかもしれませんね(笑)。

二宮: チームの勝利のために、負け数を減らすという目的を達成する上で心がけていたことは?
斉藤: 単純なところでは先取点をやらないことですね。そして、味方が援護してくれた次のイニングはしっかり抑える。そこを意識すると、先頭バッターにはフォアボールを出さないとか、野球のセオリー通りに投げることが重要になりますよね。

二宮: なるほど。相手より1点でも失点を少なくすれば負けないわけですからね。
斉藤: 点差や状況に応じて、どんなピッチングをすればベストなのか。同じ満塁でも1点もやれない場面と、1点はやっていい場面では組み立てが変わってきます。お互いに得点が入っていない0−0の状態であっても試合の流れは絶えず、動いているんです。それらを読みとってピッチングすることが大事ですね。単に抑えるだけでなく、攻撃に良い流れができるよう投げることも負けないためには必要だと感じます。

二宮: 逆に考えれば、それだけ状況がよく見えていたからこそ負けなかったとも言えますね。
斉藤: そうですね。だからと言って余裕は全くなかったですよ。順風満帆で来ていたわけではないし、肩には常に爆弾を抱えていました。もし、投げられなくなっても後悔はしたくない。その一心で毎試合、マウンドに上がっていました。

二宮: 勝っていても肩の不安は消えなかったと?
斉藤: 入団3年目に初めて手術を受けてから、消えることはなかったですね。だから、いくら勝っても怖かったですよ。

二宮: 08年からは右肩の手術を2度受け、実に6年ものリハビリ生活が続きました。復活を信じてサポートし続けてくれる球団の思いに応えたいという気持ちがあっても、肩の状態がなかなか思うように良くならない。相当のジレンマがあったことでしょう。
斉藤: 3年前に支配下登録を外されてリハビリ担当コーチになる際には、ものすごく悩みました。当然、選手としてのプライドもあったので……。ただ、何度も球団の方とお話させていただいて冷静になってみると、こうやって何年も投げられないピッチャーは普通、クビになってもおかしくない。それでもコーチの肩書で契約して復帰を待ってくれるのだから、本当にありがたい話だと思えるようになりました。リハビリする上で一番いい環境も整えていただいていましたから、もう一度、1軍で投げて恩返ししたいと、ずっと考えていました。

二宮: 絶頂から、また最後は深い谷底に落とされるような野球人生だっただけに、普通の選手とは違う経験もできたのではないでしょうか。
斉藤: そうですね。この世界を客観視できたところはあります。プロは厳しい世界と言われますが、逆に結果を出すと、ある程度のことは許される。その意味では甘い世界でもあるわけです。だけど、みんな、いつかは辞める日が来る。その後の人生のほうが長いわけですから、プロ野球の感覚のままでは世間に通用しない。自分を客観視して見つめていくことが、どの世界でも大切ではないでしょうか。どんなに周りから「すごい」と言われても、ひとりの力なんて微々たるものです。その一方で、どんなに苦しいことがあっても、決してひとりじゃない。このことを特に若い選手には知っておいてほしいなと思っています。

<現在発売中の講談社『週刊現代』(2013年12月7日号)では斉藤さんの特集記事が掲載されています。こちらも併せてお楽しみください>