高校2年時で全国高校総合体育大会(インターハイ)を経験した塩田沙代は、進路を決める上での条件は「ハンドボールを続けられること」だった。気持ちは大学進学に傾いていた。ところが、彼女は高松商卒業後、地元の香川銀行に進んだ。大学や日本リーグのチームではなく県内の実業団チームを選んだのにはある理由があった。

 

愛媛新聞社

 

 

 


 四国初の女子ハンドボール実業団チーム・香川銀行チームハンドは高松商時代から練習に参加したこともあり、トレーニングが厳しいこともチームのレベルも知っていた。事実、香川銀行側から誘われていた。しかし、塩田は高校3年のインターハイまで断っていたのだ。

 

 横に振っていた首を縦に変えたのはなぜか。その夏のある出来事が理由だった。7月、母親がバドミントンの練習中にアキレス腱を切って、入院したのだ。チームはインターハイに向けて追い込みをかけていく時期。進路のことも考えなければいけない。家事もやらねばならなくなり、17歳の塩田には負担が大き過ぎた。弱音を吐くタイプではなく溜め込んでしまう。彼女は胃腸炎を患った。

 

「大学に行くにしても、実業団に入るにしても“ハンドボールがうまくなりたい”という気持ちは変わりませんでした。ただ“これで体調を崩しているようでは1人暮らしはできんな”と思い、実家からも通える香川銀行に決めました」

 こうして塩田は進路を決断した。

 

 ハンドボーラーとしての欲求

 

 香川銀行入社後、塩田はプロフィールを作成する際に「将来の夢」という項目があった。塩田はそこに「オリンピック選手になる」と記したという。

「改めて“将来の夢ってなんやろう”と考えた時に純粋に“オリンピックに出たい”と思ったんです。ただその時は完全に夢でした」

 

 高校3年時には世代別の代表に呼ばれることもあった塩田は有望株だった。香川銀行に入ってからは日本ハンドボール協会の若手発掘事業ジュニアアカデミーに選ばれており、東京のナショナルトレーニングセンター(NTC)で合宿に来ていた塩田は日本リーグのプレーオフを観戦する機会に恵まれた。

 

 リーグの上位チームしか参加できない駒沢体育館で行われていた特別な舞台。観客の熱量、大会の雰囲気がまばゆく映った。“私もここでプレーしたい!”。いちハンドボーラーとしては当然の欲求とも言えた。日本リーグに参戦していない香川銀行にいる限りは辿り着けないステージだ。

 

 当時の塩田は、まだチームで不動の主力というわけではなかった。

「まずはレギュラーに定着して活躍できるようになろうと考えました」

 意識が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わる。塩田はメキメキと力をつけていった。2010年には日本代表にも選出され、アジア競技大会を経験した。代表活動を続けていく中でも、“もっと上のステージでプレーしたい”との想いは大きくなっていくばかりだった。

 

 チームにも偽らざる気持ちを伝えた。当然、慰留を受けた。それでも塩田の想いは変わらなかった。それを更に加速させたのは同い年のアスリートの存在もあった。

 

 2012年夏のロンドンオリンピック。女子ハンドボール日本代表は予選で敗れ、本大会に出場できなかった。だが日本選手団が獲得したメダルは過去最多(当時)の38個。その中のひとつは塩田にとっても特別なものだった。同学年の藤井瑞希が垣岩令佳と組んだバドミントン女子ダブルスで手にした銀メダルだ。

 

 藤井とは地元も所属先の拠点も違う。しかし互いに日本代表として東京のナショナルトレーニングセンターに足を運ぶ機会があり、先輩を通じて知り合った。ロンドンで藤井たちが掴んだ日本バドミントン史上初のオリンピックメダル。それは塩田にとって刺激以外の何ものでもなかった。

 

 彼女に刺激を与えた同い年は藤井だけではない。高松商の同級生・松永昂大は2012年秋のプロ野球ドラフト会議で千葉ロッテマリーンズに1巡目指名された。翌年、晴れてプロ入り。ルーキーから左の中継ぎとしてロッテのブルペンを支えている。

 

 競技は違うがオリンピックやプロという特別な世界で輝く同い年の仲間たちの活躍は塩田の背中を押した。その後もチームからの慰留は続いたが、その想いはもう止めることはできなかった。6年間いた香川銀行を離れる決意をした。

 

 “楽しいだけではダメ”

 

「自分のためにハンドボールをやっていたので、その想いを殺してまで続ける気はなかった」

 

 覚悟を決めてチームを飛び出したものの、引き抜かれたわけではない塩田は移籍先を探さねばならなかった。辿り着いた答えは北國銀行Honey Beeだった。

「日本リーグのプレーオフを観て、“強いチームに行きたい”と思ったのは北國銀行の試合でした。日本代表のメンバーもいましたし、高校生の時から北國カップでお世話になったこともありました」

 

 北國銀行の荷川取義浩監督とは試合で会った際にはアドバイスをもらうこともあり、面識があった。状況を説明すると、一度直接会って話をしようということになった。塩田は石川に向かった。その時点で香川銀行は退社しており、塩田は数週間、ハンドボールから離れていた。

 

 荷川取監督に会うとこう切り出された。

「練習着あるんやったら身体を動かしてみたらどうや」

 この一言でトレーニングに参加。そのまま北國銀行への移籍も決まった。

 

 練習の質、目指しているところも高い。レベルの違いを感ぜずにはいられなかった。だが、塩田には“やるしかない”との想いしかない。退路を断ってまで、この道を選んだからだ。

 

 移籍初年度のシーズンから試合に出て活躍した。日本リーグはレギュラーシーズン3位。プレーオフは決勝に進出したものの、3連覇した名門オムロンピンディーズに23-25で敗れ、準優勝だった。

 

 試合後、荷川取監督から「どうだった?」と感想を訊ねられた。あと一歩優勝に届かぬ悔しさも大きかったが、自らが夢見、望んだステージに立てた。塩田は素直に気持ちを伝えた。

 

「楽しかったです!」

 

 それを受けて、荷川取監督はこう諭したという。

「そうか。それはすごく良いことだけど、ハンドボールは楽しいだけじゃダメやぞ」

 

 塩田は思わずハッとした。勝ちたい気持ちがなかったわけではない。“プレーオフの舞台に立てただけで満足していなかったか?”。そう問われれば、キッパリと否定できない自分もいる。

 

 翌シーズンの北國銀行は全勝でリーグ1位。プレーオフ決勝ではオムロンに23-18で雪辱を果たし、4年ぶり2回目の優勝を果たした。塩田も主力として活躍。ベストディフェンダー賞を獲得し、プレーオフではMVPに輝いた。MVPに与えられるティアラを照れくさそうに被る。それは彼女がリーグを代表するレフトバックに成長した証でもあった。

 

(最終回につづく)

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塩田沙代(しおた・さよ)プロフィール>

1989年3月21日、香川県生まれ。高松商業入学後からハンドボールを始める。同校で全国高校総合体育大会など全国大会を経験。卒業後、実業団の香川銀行チームハンドに加入した。2010年に日本代表としてアジア競技大会に出場。13年、日本リーグの北國銀行へ移籍。14-15シーズンではプレーオフのMVPを獲得した。同シーズンからベストディフェンダー賞を4年連続で受賞するなど、守備力を高く評価されている。北國銀行では昨シーズンよりキャプテンを務める。ポジションはレフトバック。右利き。身長172cm。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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