塩田沙代は2014-15シーズン、北國銀行Honey Beeで日本リーグの優勝を初めて経験した。個人としてもプレーオフMVP、ベストディフェンダーをダブル受賞。充実のシーズンを終えた。

 

愛媛新聞社

 

 

 

 

 翌シーズンは北國銀行が圧倒的な強さで日本ハンドボール界を席巻する。社会人日本選手権、国民体育大会、日本選手権、日本リーグの4冠を達成。4大会計26試合負けなしという快挙である。

 

 塩田も守備の要として、ベストディフェンダーを2年連続で受賞した。荷川取義浩監督からの信頼も厚く、プレーオフ決勝では試合開始から後半10分近くまでの約40分間コートに立ち続けた。2年連続プレーオフMVPとはならなかったが、アグレッシブなディフェンス、チームメイトを鼓舞する姿、彼女の存在感は抜きん出ていた。

 

 16-17シーズンは日本リーグを3年連続全勝で制した。この3シーズンで北國銀行はリーグ戦の1試合平均16.5、16.2、17.2点と鉄壁の守備を誇った。アグレッシブで運動量を生かしたディフェンスが持ち味。その中心に3年連続ベストディフェンダー賞の塩田がいた。

 

 彼女の入社後、北國銀行は常勝チームとなりつつあるが、ハングリーな姿勢を失わない。変化を恐れず、キャプテンを変えることも厭わない。17-18シーズンから、ゴールキーパー(GK)の寺田三友紀からその重責を引き継いだのが塩田だった。荷川取監督はキャプテンに起用した理由をこう説明する。

「塩田ぐらいの中堅から少し上の年齢の選手がもう1回チームをリフレッシュさせてほしかった。塩田は自分の身を持って引っ張っていく選手。思い切って変えてみました」

 

 一方、塩田は驚きを隠せなかったという。

「副キャプテンも1回やったことがなかったので、“えっ私?”と。キャプテンになるまでは自分のことだけに集中できていました。でもキャプテンになったことでまわりを意識的に見るようになり、チームをまとめることを考えるようになった。自分のことプラス先頭に立っていかないといけない。元々、自分はリーダーシップを発揮するタイプではなかったので、迷いはありました」

 

 苦悩のシーズン

 

 迎えた17-18シーズンは悩み苦しんだ。11月の日本リーグ、広島メイプルレッズに25-28で敗れ、リーグ戦の連勝が59で止まった。塩田はケガで欠場していたとはいえ、チームの負けは受け入れ難いものだった。

 

 試合後、チームで緊急ミーティングを行った。「勝つことが当たり前になっていたし、勝っていたことで流されていたプレーがあった」と塩田は振り返る。ミーティングではハンドボール以外のことだけでなく、私生活においても各々が感じていることを話し合った。それによりチームの結束力はさらに深まったという。

 

 だが、すぐに結果として表れるわけではない。チームは12月の日本選手権決勝で敗れ、2年連続の準優勝。完全に波に乗り切れない時期を過ごした。キャプテンで守備の要の塩田も迷い、悩んでいた。「自分のプレーが思い切りできなくなっていました」。レギュラーシーズンで4年連続ベストディフェンダー賞を獲得したものの、その霧はなかなか晴れなかった。

 

 苦しむ塩田に声をかけたのは、前キャプテンの寺田だった。「私も横嶋かおるさんからキャプテンは引き継いだ。色もポジションも、やってきたことも違う。私も私なりに真似をしようと思ったけど、それがダメやったと気付いた。だから塩田にも『真似しないでくれ』と言いました。私も横嶋さんにすごく助けてもらった。だから私もやってもらったことをやってあげたいと思ったんです」

 塩田は寺田から「まず自分のプレーに徹してみたら? それがないとキャプテンとしてもチームを盛り上げることはできないから」とアドバイスを受けたという。

 

「最後、プレーオフに行く前に気付けました。キャプテンどうこうではなくて、自分のプレーの集中し、持ち味を発揮することが大事だと」

 プレーオフ決勝の相手は日本リーグで唯一黒星を喫した広島だった。塩田はアグレッシブなプレーで、身体を張り、チームを鼓舞し続けた。そのディフェンス力は光っていた。インターセプトから貴重な追加点をアシスト。4連覇に大きく貢献した。守護神の寺田は「すごく苦しんでいたと思うんですが、最後の最後で身体張ったディフェンスができていた」と振り返る。荷川取監督も「本当に私の怒られ役になって、いろいろ言われながらチームをまとめてくれた」と褒め称えた。

 

 現在、塩田はキャプテンとして2シーズン目を迎えている。シーズン最初の公式戦、社会人選手権で5連覇を果たした。チームはただ勝つことだけでは満足しない位置にいる。

「何をし、どう勝ちたいのかをシーズン通して考えながらやっています。自分たちのハンドボールを常に意識している」

 

 現実味が帯びてきた夢

 

 10年から日本代表に呼ばれるようになりアジア競技大会も経験した塩田だが、ロンドンオリンピック予選はメンバーに入っていない。リオデジャネイロオリンピックの最終予選は選ばれたものの、その前のアジア予選ではメンバーからは漏れていた。

 

 代表にコンスタントに呼ばれるようになったのは16年にウルリック・キルケリー監督が就任してからだ。とはいえ、レフトバック(LB)はキャプテンの原希美らライバルがおり、塩田が不動の座を築いているわけではない。

 

 76年モントリオール大会以来、オリンピックから遠ざかっている日本代表だが、キルケリー監督就任後は上昇気流に乗っている。昨年、ドイツで行われた世界選手権では強豪相手に競り勝ち、善戦するなどベスト16に入った。今月のジャパンカップでは世界ランキングで格上のポーランドにも勝利した。「結果が出ることで“自分たちも戦える”という自信はついてきています」と塩田。日本代表はデンマーク出身の指揮官の下、ヨーロッパの戦術も採り入れている。

 

 攻撃時には時折、GKを下げてコートプレーヤーを入れる“7人攻撃”を仕掛ける。ボールを奪われ、カウンターをくえば大ピンチとなる。そのリスクを冒してでも攻撃で優位性をつくるのだ。「失敗を恐れるのではなくチャレンジしていこうという意識は高いと思います」。それが世界へ挑むための戦法のひとつである。

 

 19年は熊本での世界選手権、20年には東京オリンピックが控えており、自国開催のビッグイベントが続く。塩田が香川銀行チームハンドに入ったばかりの頃は「完全に夢でしかなかった」というオリンピックも現実的な目標として捉えられるようになってきた。

 

「ケガもたくさんしてきています。コンディションを整え、疲れを残さないようなケアも考えています」

 現在29歳。もう若手と呼ばれる年齢ではなくなった。現実的に考えなければいけないことは増えてきた。

 

 だからといってプレーヤーとしての欲は失っていない。

「今は代表もチームもコートに立っている時はディフェンスがメイン。だから得点にも絡めるようになりたい。オフェンスでもディフェンスでもコートに必要とされる選手でいたいです。もっと上を目指していかないといけないとは常に思っています」

 

 貪欲であることは、彼女の持ち味でもある。

「足りないこともまだまだある。レベルアップしなければいけません」

 LBとしてコートに立ち続けるにはシュート力、得点力の上積みは必須だ。壁の上から突き刺すようなシュートがあれば、塩田を警戒するために敵の防御網を崩すことにも繋がる。

 

 アグレッシブでハングリー。そして迷わない。コート上でのプレー同様、彼女はうまくなること、強くなることに貪欲で真っすぐだ。高校生から始めたハンドボール。飛び抜けたセンスはなかったかもしれない。ただ塩田はひた向きにコツコツと物事を続けられる才能があった。今後、世界選手権やオリンピックという大きなステージが待っている。挑戦することを恐れない塩田が、その道を突き進む。

 

(おわり)

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塩田沙代(しおた・さよ)プロフィール>

1989年3月21日、香川県生まれ。高松商業入学後からハンドボールを始める。同校で全国高校総合体育大会など全国大会を経験。卒業後、実業団の香川銀行チームハンドに加入した。2010年に日本代表としてアジア競技大会に出場。13年、日本リーグの北國銀行へ移籍。14-15シーズンではプレーオフのMVPを獲得した。同シーズンからベストディフェンダー賞を4年連続で受賞するなど、守備力を高く評価されている。北國銀行では昨シーズンよりキャプテンを務める。ポジションはレフトバック。右利き。身長172cm。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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