東京六大学野球は1925年の連盟創設から90年以上の歴史を持つ。早稲田、慶應義塾、明治、法政、東京、立教の6つの大学で構成され春と秋にリーグ戦を開催する……とは、当欄読者の方なら周知のことだろう。この春からはインターネットテレビのAbemaTVが無料生中継を開始した。スポーツコンテンツとしての魅力は数ある大学スポーツの中でも今も色褪せていない。春のリーグ戦を制した慶応OBで元プロ野球選手の山下大輔氏に話を聞いた。

 

 まさに青春のヒトコマ

 今年の春は母校・慶応が優勝を果たしました。大久保秀昭監督の下、先発、中継ぎ、抑えと役割を徹底し、整備された投手陣が頑張りました。東京六大学は先に2勝すると勝ち点が与えられるという独特のルールを持つリーグ戦なので、大黒柱であるエースをフル回転させるというイメージもありますが、今年の慶応は投手分業制で勝利をつかみました。最初から分業制を狙っていたのかどうか? それは聞いてみないとわかりませんが、キャッチャー出身の大久保監督らしく選手を見極め、適材適所でチーム編成を行った結果だと思っています。なんにせよ母校の優勝というのはうれしいものです。

 

 今年、インターネットTVの解説で訪れた神宮球場で、実際に「KEIO」のユニホームがグラウンドで躍動しているのを見ると大学時代のことを思い出しました。まさに青春だったな、と。

 

 高校を卒業して静岡県清水市から上京し、野球部の寮に入って4年間を過ごしたわけですが、大学というのは大人になっていく段階であり、途中、成人式も挟む時期です。成人した上級生は勝てば「祝杯」をあげるし、高校時代とはまるで違う雰囲気でした。入学して見た4年生の先輩の第一印象は「オジサン」でしたから(笑)。

 

 今になって振り返ると、我々には早慶戦という大一番があり、それこそ徹夜で並んで応援してくれる人たちがいて、当時は本当に超満員でしたから、恵まれた環境だったと思います。そしてチームメイトにも恵まれて、私たちの時代は三連覇をしたことが本当に今でも印象に残っています。ただ、勝ったから、三連覇したからというわけでなく、仮に優勝をしていなくても強烈な思い出になっていたでしょうね。それくらい野球部を含めた大学生活はいいものでした。まあ前期、後期にテストがあってそれは非常に大変でしたけど(笑)。進級できないと野球どころじゃなくなるので、自分なりに勉強の方も頑張りました。あくまで自分なりに、ですけど。

 

 六大学は学校によって部の雰囲気も違っていました。実際に他の5大学の野球部に入ったわけではないので断言はできませんけど、対戦するとやはり大学によってカラーがありましたね。慶応はエンジョイ・ベースボールが伝統で、先輩・後輩の関係はありましたけどそんなに厳しくないし、何よりも個性を尊重した指導がモットーでした。例えばバッティングなら「上から叩け」が一辺倒の時代に、そんな教えではなく個性を尊重したフォームで打たせたり、型にハマった指導というのはありませんでした。

 

 そして何よりも驚いたのは、グラウンドにポリバケツが置いてあって、練習中に飲んで良かったことです。

 

 私が入学した昭和45年ころは「運動中は水を飲むな!」の時代です。ところが慶応の野球部は違っていた。氷が入ったポリバケツがあり、その横には塩まで置いてあって、そういう面でも進んでいたのかなあと思います。

 

 春のリーグ戦を見ていて、母校にもいい選手が何人もいました。1年の正木智也選手は思い切りのいいスイングで、代打で出ていい当たりをしていました。私も1年の春から出場させてもらっていたので、それとダブッって見えたものです。

 

 私は慶応を卒業してプロ野球に進みましたが、同級生は就職、しかもそこそこの大企業に進んだ者が多く、今でも同期会に出席すると野球一筋で来た私にとっては異業種の人間と話せるので新鮮です。そうした人間関係が築けたのも、大学に進学して良かったなと思うところですね。

 

 高校卒業後、球児の進路はプロ野球、社会人、大学、そして最近では独立リーグと選択肢が増えてきています。大学に進んだ自分の経験からすれば、4年間は決して無駄ではなかったと思いますよ。振り返ると大学野球で経験したことは思い出だし、同時に財産にもなっている。そのときにはわからなくても、10年、20年と経つと「あ、良かったな」と感じることでしょう。

 

 一時は六大学も観客減少が話題になっていましたが、この春はそこそこスタンドも埋まっていました。慶応の他にもいい選手はたくさんいるので、プロ野球とも高校野球とも違う六大学野球の魅力を神宮球場で感じてみてはどうでしょう。

 

<山下大輔(やました・だいすけ)>
1952年3月5日、静岡県出身。清水東高から慶應義塾大学に進学し1年時からレギュラー遊撃手として出場。4年時には主将を務めた。通算88試合出場で314打数102安打、11本塁打、50打点、打率.3割2分5厘。ベストナインには4回選ばれている。74年、ドラフト1位で大洋に入団。2年目からショートのレギュラーに定着し、以後、ゴールデングラブ賞を8年連続で受賞した。77年、遊撃手連続守備機会無失策のセリーグ記録、78年同日本記録を樹立した。88年、現役引退。引退後は横浜、東北楽天でコーチ、03、04年は横浜で監督を務めた。


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