皆様、ご無沙汰しております。白寿生科学研究所・小野仁です。前回、私自身のセカンドキャリアについてお伝えしてからあっという間に2カ月が経ち、このコラムも2回目を迎えました。今回は、私自身が考える「セカンドキャリア問題」について書いていきます。自分自身が陥った過去の経験や心境に基づいてお伝えしていきます。


 私はもうひとりのコラム執筆者・松修康(白寿生科学研究所)と同じ部署にて、アスリートに特化して弊社の営業社員採用につなげる業務を行っています。またアスリートエージェント事業(アスリートのセカンドキャリアおよび体育会系学生就職支援)も兼務しております。

 

 こうした人材関連の仕事は前職から始めましたが、それまで人と接することに積極的ではなかった私が、今は自ら人に会いに行き、弊社の説明や人材採用についての状況確認など、多くの人と関わることが主な仕事になりました。毎日、あらゆる業種の方々にお会いしている今は、引退した後、自分の考えの中に閉じこもっていたころと比べ物になりません。この数年いや、この数カ月でいただいた周りからの叱咤激励によって、自分自身に劇的に変化が生じていると実感していて、前回お伝えしたように、ようやく私自身のセカンドキャリアがスタートしたところだと思っています。


 野球から離れて約15年。当時と今とでは競技後の支援に携わる関係者が格段に多くなっていると実感しています。まあ、私自身が周囲に目を向けることなく、自ら遠ざけていた部分もあるのですが……(汗)。しかし、競技生活終了後を見据えたビジョンを明確に持ち、プロセスを考え、目標を立てている元アスリートが多く存在していることを嬉しく思います。

 

 現役引退後、スムーズにセカンドキャリアをスタートした元アスリートの特徴を以下のようなものです。現役中に次のステージに向け足踏みすることのない教育を施され、競技をしながら同時に次のキャリアに向けての準備が出来ていた。周囲からの競技引退後のアドバイスを真摯に受け止め考えられていた。自身が考える次への大きな野望を形にするためにポジティブな行動を起こせる。これは私が接した元アスリートの言葉から感じたことです。

 

 野球人口減少にストップ

 さて、ここまでセカンドキャリアの良い部分をお伝えしておりますが、誰にとっても良い環境になっているとはまだまだ言えません。

 

 アスリートのキャリア支援はそれぞれ個々のコネクションを頼る形がほとんどで、中には大掛かりな支援システムの導入を試みる企業がありますが、まだ発展しているとは言えない現状も耳にします。

 

 コネクション頼りとなれば当然、情報や出会い、きっかけのない元アスリートは、マインドセットができずに目先の職に身を投じ、自分に合うことのない業務をこなすだけ日々を過ごすことになります。知識や経験が積み重ねられず、仕事とは呼べないような無意味な時間となります。その先に待っているのは「退職」の文字。このような状態ではなかなか前には進めません。

 

 選手生活を終え、その後のキャリアについて、目標を持てず路頭に迷う人や、現実を目の当たりにし臆病になる人など、セカンドキャリアにはマイナス要素が浮き彫りになる部分も多く存在します。

 

 現在、日本の子供で野球を楽しむ人口が年々低下していると聞いています。数多くある原因のひとつとして、「野球(プロ野球を含む)後の保障や、将来に対する援助などがないからやらせたくない」と言う親御さんが多いと聞いています。野球をやりたい子供たちの気持ちと、子供の将来を考える親の思いが交錯しているのが容易に想像できます。こうした不安要素が解消されない限り、野球を始めさせる家庭は減少の一途を辿ることも考えられます。

 

 アスリートとしての寿命は野球選手の場合、平均的にも短く、だからこそ現役中には競技に集中して伸び伸びと取り組んで欲しいと思いますし、そのためには引退後のキャリアサポートや教育体制を充実させるなどの環境作りを整えることも重要でしょう。そうした取り組みが野球人口の増加や技術の進歩、さらに人間力の向上につながり野球の発展、セカンドキャリアの成功に結びつくと私は考えています。

 

 私は野球を通じて多くの人とつながり、その皆様のおかげでこうして生活ができていると思っています。野球選手は間違いなく根底に高い志を持っています。セカンドキャリア支援をする私としては、その根底に触れ、掘り起こし、気付きを与え、新たなチャレンジ精神を芽生えさせる役目を担っていると思います。数多くのアスリートが引退後も世の中で活躍するための業務に携わっていることに誇りを持ち、これからも日々精進して参ります。では、また次回のコラムにてお目にかかりましょう。

 

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。


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