<この原稿は2013年12月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 

 東京新大学野球リーグに所属する東京国際大学が、初めて出場した全日本大学野球選手権でベスト4進出を果たしたのは、今から2年前のことである。

 

 監督は広島カープや横浜大洋で指揮を執った古葉竹識。広島球団史上初の優勝含め、リーグ制覇4回、日本一3回の名将だ。

 

 大学球界に旋風を巻き起こした就任4年目でのベスト4進出だったが、古葉は「虚しい気持ちでいっぱいだった」という。

 

「準決勝で慶大に負けました。大学関係者や応援団の皆さんは“よくやった”と褒めてくれましたが、真っ先に僕の頭をよぎったのは“リーグ戦初優勝は何だったのだろう”という思いでした。

 

 実は、僕はこれと同じ思いを過去に味わっています。1975年、広島は初優勝を果たし、街中が熱狂したのですが、阪急との日本シリーズではひとつも勝てませんでした(0勝4敗2分け)。プロも大学もそうですが、やはり日本一が目標。日本一になってこそ全員で喜びを分かちあうことができるんです」

 

 身長172センチ、70キロ。広島の指揮を執っていた頃から、この体型はほとんど変わらない。矍鑠たる立ち姿が、青年監督時代の記憶を甦らせる。

 

 現役を退き、南海の2軍守備走塁コーチに就任したのが35歳の時。それ以来、古葉は試合中、一度もベンチに腰を下ろしたことがない。広島や横浜大洋の監督時代は常にベンチの隅に立ち、指示を出し続けた。半分しか姿が見えないため、“幽霊”などと揶揄されたこともある。

 

 この立ち位置も昔のままだ。

 その理由を、古葉はこう語る。

 

「あの位置が一番、野球がよく見えるんです。ピッチャーの球種まで、はっきりと分かる。仮に打たれて、打球が左中間に抜けたとする。内野手がベースカバーにきちんと入っているか、それを確認することもできます」

 

 ――疲れることはありませんか?

 そう問うと、柔和な笑みを浮かべ、おもむろに答えた。

「プロの休みは1週間に1回だけ。しかし大学は、せいぜい1週間に2、3試合、これで疲れたなんて言ってられませんよ。むしろ立ちっぱなしの方が楽かな。これも齢をとらないための運動のひとつですよ」

 

 一瞬たりともボールから目を離さない。これも昔と同じだ。

「言うまでもなくボールはひとつしかありません。ボールを投げる。それを打つ。様々なプレーが発生する。個々の選手が、皆責任を果たしているか。もし、果たしていなかった場合、僕は“なぜだ?”と選手に問います。ひとつのボールをずっと凝視しているから、こういうことができるんです」

 

 ただし、とここで一度、古葉は言葉を切った。

「プロなら“もう次は使わないぞ”ですみますが、アマはそういうわけにはいかない。将来は野球の指導者になる子供もいれば、社会人やプロで野球を続ける子供いる。“なんで、スタートが遅れたんだ?”“なんでバックアップをきちんとしなかったんだ?”と彼らに聞いて、粘り強く指導しなければならないんです。

 

 野球の基本がわかっていれば、仮に選手として大成しなくても“オマエ、よく勉強してるな。ウチでコーチでもやるか?”という誘いがくるかもしれない。そのことを子供たちには口を酸っぱくして言っているんです」

 

 古葉と言えば、“江夏の21球”で知られる近鉄との79年の日本シリーズを持ち出さないわけにはいくまい。

 

 雌雄を決する第7戦、4対3と広島は1点のリードで9回裏に突入した。舞台は大阪球場。8回ごろから雨足が強くなっていた。

 

 ヒットと2つの四球で無死満塁。絶体絶命のピンチで守護神・江夏豊は代打の佐々木恭介を三振に切ってとる。

 

 1死満塁。依然として窮地であることには変わりはない。

 

 迎えたバッターは石渡茂。カウント1-0。セットポジションから江夏の右足が上がりかけた瞬間だ。三塁走者の藤瀬史朗が猛然と本塁へ突っ込んできた。

 

 キャッチャーの水沼四郎はマスクを脱いで立ち上がった。スクイズを察した江夏はカーブの握りのままウエストボールを放った。緩やかな軌道を描いたボールは石渡のバットをあざ笑うかのように水沼のミットにおさまった。

 

 藤瀬は本塁の5メートル手前でタッチアウト。2死二、三塁とした江夏は2ナッシングから21球目をインローに投じた。ヒザ元へのカーブに石渡のバットが空を斬った瞬間、日本シリーズ史に残るドラマは完結した。

 

 1死満塁の場面で古葉はベンチの選手たちに、こう指示を飛ばしていた。

「相手のベンチなんか見なくていい。三塁走者の動きだけを見ておいてくれ!」

 

 藤瀬がスタートを切った瞬間、全員が「外せ!」と叫んだ。

「この声が江夏や水沼に届いたと信じています」

 

 現在、古葉が指導する選手たちにとっては、“生まれる前の話”である。古葉にとって選手たちは孫のような存在だ。

 

「だから、こう言うんです。“僕はな、キミらのおじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さんから(キミらを)預っているんだよ”と。

 

 今はいませんが、以前はタバコを吸う選手も何人かいた。僕はこう説教しました。“今、タバコはいくらかかるんだ? 400円か? そのおカネがあれば牛乳を2本、パンを2つ買えるよな。野球選手なら、体をつくる方が大事かと思わないか”と。

 

 中には“厳しいことを言いやがる”と思った選手もいたかもしれない。でも、それが学生野球の指導者である僕の役割なんですよ。僕は部員の皆がかわいい。全員に成長してもらいたい。だから妥協はしない。この齢になってまだ野球ができるというのは、本当にありがたいことです」

 

 眼鏡の奥の視線を光らせながら、今日も老将はベンチの隅に立ち続ける。


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