1997年のシーズン前、稲川朝弘はブラジル人ミッドフィールダーのリカルジーニョを名古屋グランパスのキャンプが行われているオーストラリアに送った。

 

 この頃から稲川は、Jリーグ各クラブの強化担当者との繋がりができるようになっていた。グランパスから、年俸が安く、若く、そしていい選手が欲しいという話を貰ったのだ。前年のタッサ・サンパウロで優秀選手に選ばれたリカルジーニョは、その条件にぴったりの選手だった。

 

 グランパスの監督は前年から、ポルトガル人のカルロス・ケイロスになっていた。

 

 稲川はこう振り返る。

「ケイロスはブラジルには知名度が低くても、若くていい選手がいることを知っていたんです。それで見て貰うことになった」

 

 テストは合格。背番号7が与えられることになった。稲川が国外からJリーグのクラブに移籍させた最初の外国人選手となった。

「当時は手探り状況でやっていて、どんな風に契約書を作ったのかも記憶がないんです。どうやってオーストラリアから日本に連絡をとったのか。恐らく文書はグランパスとぼくが半分半分で作って、翻訳に出した。あとはファックスでのやり取りだったのかな。とにかく契約を成立させなくてはならないと必死でした」

 

 この年のグランパスには、ユーゴスラビア代表のドラガン・ストイコビッチの他、望月重良、小倉隆史、浅野哲也などの日本代表クラスの選手が揃っていた。しかし、結果が伴わなかった。最も簡単な、成績不振のてこ入れは外国人選手の差し替えである。

 

 シーズン途中、ベンフィカに所属していた元ブラジル代表のバウドを獲得。リカルジーニョのポジションに入った。リカルジーニョは翌シーズンからベルマーレ平塚に移籍することになった。

 

「シルビオ・アキさんから“リカルジーニョを貸してくれないか”と。その後、シルビオさんはリカルジーニョのパス(保有権)を買って、サンパウロFCに入れたんです。そして2001年から(川崎)フロンターレにレンタルで来た。いい選手だったことは間違いないんですが、名古屋に入ったときはまだ若すぎた」

 

 シルビオ・アキはベルマーレに多くのブラジル人選手を紹介していた日系ブラジル人の代理人である。

 

「ベルマーレへの移籍で、ちっちゃな金額ですけど利益が出たことを評価された。それまでグランパスはそういう選手の動かし方をしたことがなかったんです」

 

 このリカルジーニョの移籍がきっかけとなり、稲川とグランパスの距離が縮まることになる。

 

 ある日本人選手の国外移籍

 

 スポーツ・エージェント――代理人の仕事とは契約交渉、また顧客である選手が競技に集中できる環境作りをすることと定義できる。国外移籍を望む日本人選手の手助けをするのも重要な任務である。

 

 97年のシーズン終了後、グランパスに所属していた森山泰行がベルマーレに期限付き移籍していた。

 

「森山とは彼がグランパスに入った1年目から知り合いではあったんです。ぼくが名古屋に住んでいた頃の友人が森山を知っていた。それで会うことになったんです。97年のシーズンが終わった後、いろいろな事情で彼はグランパスを出ていかなくてはならなくなった。彼はぼくとは別の代理人を使ってベルマーレにレンタル移籍したんです。でも、それじゃないなという感じが彼の中ではあった。そこでぼくに相談があった」

 

 森山は1969年に岐阜で生まれた。早くから将来を嘱望されたフォワードで、帝京高校から順天堂大学に進んだ。順天堂大学4年生のときには、ウルグアイに留学している。大学卒業後、グランパスに入った。

 

「大学時代にウルグアイに行ったことがあったりして、元々海外志向があった。大学選抜などで海外にも出ていたせいか、チャレンジしたいという気持ちをずっと持っていた。(グランパスの監督だった、アーセン・)ベンゲルやストイコビッチとやったりして、自分でもできるという思いが強くなったんでしょう」

 

 稲川が当初、移籍先として考えたのは、ユーゴスラビアのレッドスター・ベオグラードだった。

 

 レッドスターは第2次世界大戦中の1945年に設立された。現在のUEFAチャンピオンズリーグの前身である、1990―91年シーズンのチャンピオンズカップで優勝。91年のトヨタカップで来日、チリのコロコロを破っている。

 

 森山をスロベニアへ

 

 前出のストイコビッチも86年から90年シーズンまで在籍していた。

「東欧の友だちと話をしていたとき、どうせだったらレッドスターだったらいいよねって。そのときは、ノリですよ。東欧は技術的にレベルが高くて、いいサッカーをするという印象があった。森山にとってもストイコビッチを知っていたから親近感がある。それでチームにビデオ、履歴書を送ったんです」

 

 本当に届くのかなぁと思いながら送りましたね、と笑いながら付け加えた。

 

 このとき日本は一度もワールドカップに出場していない。ストイコビッチたちがJリーグでプレーしていたことで、きちんと給料を支払ってくれるという移籍先としての信用はあったが、日本人選手の評価はほぼゼロ。そのため、まずは旧ユーゴスラビアのスロベニアのヒット・ゴリツァに移籍、半年後にレッドスターに移るという話になった。

 

 ゴリツァはスロベニアの西に位置するノヴァ・ゴリツァを本拠地とするクラブで、1947年に設立された。

 

 森山に先駆けて、稲川がノヴァ・ゴリツァを訪れている。

 旧ユーゴスラビア諸国は複雑である。

 

 第2次世界大戦中、旧ユーゴスラビアはドイツ、イタリアに支配されていた。戦後、ヨシップ・ブロズ・チトーを率いるパルチザンによって独立。ただし、この国は『7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家』と表現される多様な文化圏を内包していた。

 

 90年7月にコソボが独立を宣言、翌91年6月のスロベニアの独立により内戦状態に入っていた。

 

 日本にとって東欧は距離的にも、心理的にも遠い国々である。荒れた国ではないかと思いながら、着いてみると拍子抜けするほど、静かで清潔な街だった。

 

「西の国境を越えるとイタリア、北はオーストリア。ぼくはオーストリアの影響を感じました。綺麗な街でしたね。まだ共産国の匂いが残っている感じでした。人なつっこいんだけど、シャイ。擦れていない印象でした」

 

 ふと、目をやると一人の大きな黒人が歩いていた。この国は白人ばかりなのに珍しいなと稲川は思った。案内してくれた男が、あれはバスケットボールの選手だと教えてくれた。

 

「この国で5人しかいない黒人の1人で、どこに住んでいてって、個人情報を全部知っているんです。怖い国だなとちょっと思いました」

 

 そして、フランスでワールドカップが始まった。日本代表にとって初めてのワールドカップである。森山は大会終了後にスロベニアへ向かうことになった。

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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