1995年、稲川朝弘は代理人として、ヴェルディ川崎の選手だった菊原志郎を浦和レッズにレンタル移籍。さらに鋤柄昌宏、名古屋グランパスの浅野哲也の移籍を手掛けている。しかし、これは苦肉の策でもあった。ヴェルディには三浦知良の父、納谷宣雄が実質的な公式代理人として、外国人選手の契約を仕切っていたからだ。

 

 稲川はこう振り返る。

「納谷さんは日本で初めてサッカーの代理人を始めた人。ヴェルディはもちろん、ブラジルにも人脈があった。クラブの総(強化)予算がどれぐらいあるのかを考えて、選手を連れてくる。当時はそうした代理人業をやっている人が他にいなかった。自分は関わることはできませんでしたが、横で見ていて学ぶものはありました」

 

 ただし、と付け加えた。

「ヴェルディとしては(納谷がいるので)ぼくが仕事をしてもお金を払えない。菊原のケースにしても、“うちでなくて外(浦和)からお金を貰って来い”っていうんです。だから、ぼくは本当にお金がなくなって、借金2000万円、財布の中には1000円なんてときがありましたからね」

 

 成功するかは不確定

 

 そして、ぼくは借金のプロでしたと笑った。

「担保はないし、銀行がお金を貸してくれるはずもない。それで選手たちに借りたりしていた。少しづつ返して行くことで逆に人間関係が良くなったというのもあった。自分がこのままやって成功する可能性があるかどうかなんか全く分からなかった。ただ、エネルギーと意欲だけはあった」

 

 そこで稲川が考えたのは、納谷が手を付けないこと、だった。

 

 まずはペレイラだった。

 

 ペレイラこと、ルイス・カルロス・ペレイラは92年にブラジルのグアラニからヴェルディに加わった。屈強なセンターバックとして93年、94年とベストイレブン、94年には最優秀選手に選ばれている。ただ、このペレイラは納谷が連れてきた選手ではなかった。ヴェルディと彼の契約は95年シーズン末で終了。契約更新はないという。

 

 ペレイラを巡ってヴェルディ内部で様々な思惑があったことは容易に想像できる。

 

「まだ日本でやりたいというので、(コンサドーレ)札幌に入れた。札幌はできたばかりで、JFL(ジャパン・フットボール・リーグ、当時はアマチュアリーグ)でした」

 

 年が明けた96年1月、稲川はヴェルディの20歳以下のチームをサンパウロへ連れて行っている。ブラジルの『タッサ・サンパウロ』という大会に参加させるためだった。

 

 タッサ・サンパウロは、コパ・サンパウロと呼ばれることもある。直訳すれば、サンパウロ・カップである。

 

 ブラジルのクラブは、プロ契約選手のトップチームを頂点として、『ジュニオール』『ジュベニール』『インファンチウ』と年齢ごとのカテゴリーに分けられている。タッサ・サンパウロは18歳から20歳を対象としたジュニオール年代のチームを集めた大会である。元々はサンパウロ州内のクラブで始まり、やがてブラジル全国のクラブが参加するようになった。タッサ・サンパウロにはブラジル国内はもちろん、欧州からもスカウトが視察に訪れるユース年代の選手の品評会となった。

 

 

 タッサ・サンパウロでヴェルディは、パルメイラス、クルゼイロ、パウリスタと共にグループCに入った。しかし、勝ち点1も挙げることができず、最下位。まだまだブラジルとの差は大きかった。

 

 リカルジーニョとの出会い

 

 翌年のこの大会で、稲川は1人の左利きの選手に目を付けた。ナシオナルというクラブにいた、リカルド・ソウザ・シウバ――リカルジーニョである。

 

 ナシオナルは1919年に「サンパウロ・レイルウェイ・アスレティック・クラブ」として設立。ブラジルで古い歴史を持つクラブの1つであり、1946年にナシオナルと改称した。

 

 元ブラジル代表のサイドバック、カフーの出身クラブとしても知られる。彼はサンパウロの主要なクラブのテストを受けて、全て落ちた。引っかかったのがナシオナルだった。つまり、サンパウロ内でそういう立ち位置のクラブである。

「サンパウロFCやパルメイラスに入れなかった選手が行く、みたいな感じでした。進学校ではないけけど、2番目に優秀な私立みたいな感じで、いい選手が結構いたんです」

 

 タッサ・サンパウロでナシオナルは準決勝まで進み、アトレチコ・ミネイロに敗れている。

 

「リカルジーニョは左利きで速い選手だった。才能はありました。タッサ・サンパウロの優秀選手にも選ばれました」

 

 話してみると、リカルジーニョは気のいい若者だった。ただ、話をしているとき、目をそらすのが気になった。ブラジル人は普通、相手の目をじっと見て話す。なぜ、目を合わせないのだと聞いてみた。

 

「俺はファベーラ出身の人間で、“目が合うと殺されるから”って言うんです。ああ、本当にそういうことがあるんだと思いましたね」

 

 ファベーラとは貧民街のことだ。警察の手が届かないファベーラの中で幅を利かせているのは、トラフィカンテと呼ばれる新興マフィアである。彼らといざこざになるのを恐れて、自然と人と目を合わせなくなっていたのだ。この国ではサッカーは貧困と暴力の深い沼から這い上がる手段であるのだと、稲川は頭を殴られたような気分だった。

 

 そして、このリカルジーニョを日本へ連れて行こうと決心した。しかし、ヴェルディは難しいだろう。そこで、別のクラブに話を持っていくことにした。グランパスである――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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