CSファイナルステージで巨人をスイープで退け、日本シリーズ出場を決めた広島カープ。そのハイライトは、王手をかけた第2戦だった。8回裏2死一塁の場面、代打で登場した新井貴浩は、レフト線にライナー性の打球を運び、二盗に成功していた上本崇司をホームに迎え入れた。これで試合は振り出しに。絵に描いたような“魂の一振り”だった。

 

 この新井の同点タイムリーをテレビで見ながら、腫れ上がるほど手を叩いた者がいる。広島市安芸区矢野東地区に住む広島の前OB会長・長谷部稔だ。この7月、同地区は豪雨に見舞われ、住宅街にまで土石流が流れ込んだ。カープの快進撃に復旧の槌音が重なる。

 

「新井はワシの高校の後輩で、しかも背番号も同じなんです」。広島カープは日本プロ野球連盟総裁(当時)・正力松太郎のエクスパンション政策により、1950年に誕生した球団である。長谷部は48人の第1期生のひとりだ。同期には通算197勝をあげた“小さな大投手”長谷川良平もいた。

 

 広島県立広島工業学校では強打の捕手として鳴らした。学制改革で同校は広島県立皆実高校となり、卒業の年に入団テストを受け、晴れて合格した。与えられた背番号は「25」だった。

 

 月給5000円で契約した。当時は県庁や市役所の職員の初任給が1700円前後。「これは悪くない」と内心、ほくそ笑んだ。しかし経営難により、実際に支払われた額は月に2000円程度。「弱かったから、球団にカネが入らなかったんです」

 

 そのころ、プロ野球には「7対3ルール」なるものが存在していた。試合収入は勝者が7、敗者が3の比率で振り分けられた。弱い広島は十分な試合収入が見込めず、給料は遅配の連続だった。

 

 爪に火を点すような生活ながら、誰ひとりとして選手は弱音を吐かなかった。「原爆で焼け野原になった広島のまちを誰が立て直し、勇気付けるか。ワシら野球選手が頑張らずして、誰がやるんですか」。オフシーズンには宴会に駆り出され、慣れない歌もうたった。球団存続の寄付金を募るためである。ファンと選手の距離の近さ。「市民球団」の原型が、ここにある。

 

 長谷部を除き、1期生は全て物故者となった。「カープが日本一になったことを、皆に報告したいんですよ」。辛苦を重ねた87歳の切なる願いである。

 

<この原稿は18年10月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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