69回目を数える日本シリーズで、引き分けが2度もあるのは1975年だけである。球団創設26年目にして初めてリーグを制した広島と、過去に5回も頂上決戦に臨みながら、いずれも巨人にはね返された阪急の対決は4勝2分けでパ・リーグ王者に軍配が上がった。

 

 引き分けは第1戦と第4戦。先発投手は2戦とも広島が外木場義郎で阪急は足立光宏。完全試合を含む3度のノーヒットノーランを達成している球界を代表する「剛腕」と下手からシンカーという名の「魔球」を自在に操る足立の投げ合いは、昭和後期の時点での日本野球のメルクマールを示していたと思われる。

 

 延長11回で時間制限(当時日本シリーズ規定は17時30分以降、新しいイニングに入らず)となった第1戦は3対3。延長13回にまでもつれ込んだ第4戦は4対4。ともに息詰まるような死闘だった。

 

「2回とも僕がからんでいるのは忘れとったね」。78歳の足立は言った。「実を言うと、僕は腰が悪くてあのシリーズは調子が良くなかった。しかも、あの年は寒くてねぇ。ベンチに炭火を入れて試合をやったことを覚えていますよ」。腰をかばうあまり、シンカーの切れもいつもほどではなかった。それでも先発としての責任を果たすことができたのは「経験の差によるものだった」と足立は言う。「広島は初めての日本シリーズ。打者には気負いが感じられました。一方、阪急は日本シリーズに5回も出て負け慣れていた(笑)。シリーズは舞台慣れしたチームの方が有利ですよ」

 

 一方の外木場はどんな思いだったか。「結論から言えば力負けでした」。サバサバとした口調で言った。「正直言ってまだレギュラーシーズンの疲れが残っていました。だから初戦のことも初回に大熊忠義さんにホームランを打たれたこと以外あまり覚えていない。阪急打線は力がありましたよ。ポンポンと打球をスタンドに運ぶもんだから、市民球場でのフリーバッティングは見ないようにしていました。セ・リーグの打者とは迫力が違っていましたよ」

 

 日本シリーズ史上、昨季までドロー発進はこの75年と86年の2回だけ。いずれもセ・リーグの代表は広島だ。75年は1勝もできなかったが、86年はドロー後3連勝しながら、西武の軍門に下っている。そして今年、3回目のドロー発進。緒方広島は不吉なジンクスを打破できるのか……。

 

<この原稿は18年10月31日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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