1998年はブラジルサッカー界にとってひとつの転換点となった年だった。

 

 3月に『法律9615』――通称・ペレ法が制定されたのだ。これはフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の下でスポーツ大臣を務めていたペレによる、クラブ経営の透明化を目指した法律である。

 

 長年、ブラジルの主要クラブは、カルトーラと呼ばれる“ボス”たちが牛耳っており、その財務状態は全くのブラックボックスとなっていた。

 

 法律の柱は、選手の保有権“パッセ”制度の廃止である。選手はクラブとの契約以外にパッセを持つ人間、組織に移籍の権利を握られていた。ブラジル人選手の欧州クラブの移籍の際、パッセの“売買”で表面に現れない、莫大な金額が動いていた。これがカルトーラたちの懐に入っていたのだ。この法改定は欧州でのボスマン裁定を受けたものでもある。

 

 ジーコことアルトゥール・アントゥーネス・コインブラがスポーツ担当大臣を務めていたとき、パッセ制度を廃止する法律を制定している。ジーコ法に強制力を与えたのがペレ法だった。

 

 この背景には国際サッカー連盟(FIFA)会長だったジョアン・アベランジェの元娘婿であり、当時のブラジルサッカー連盟会長のリカルド・テシェイラの動きを制する意図もあった。テシェイラこそ、ブラジルサッカー腐敗の象徴であったことは、後のFIFAに関するスキャンダルで明らかになる。

 

 ペレ法により財務状況の厳しいクラブを中心に、外国人選手獲得のためのビザ申請が厳格になっている。

 

 森山泰行はこのあおりを食らうことになった。

 

 ジュベントゥージという選択

 

 稲川朝弘は、森山をエスポルチクルービ・ジュベントゥージに移籍させている。ジュベントゥージはブラジル南部、ヒオグランデ・ド・スール州のカシアス・ド・スールで、イタリア系移民によって1913年に設立されたクラブである。

 

 南半球にあるブラジルは、北半球の日本などと反対に南に向かうほど、気温は下がる。森山がジュベントゥージの練習に参加したとき、その寒さに稲川は驚いたという。

「グラウンドが高台にあって、雪が降っていた。そのとき初めてブラジルで雪が降ることを知りました」

 

 このクラブを繋いでくれたのは、日系ブラジル人のシルビオ・アキだった。

 

 すでにこの連載で触れたように、名古屋グランパスにいたリカルジーニョをベルマーレ平塚に移籍させた代理人である。彼はサンパウロで手広く事業を営んでおり、呂比須ワグナーの義理の父に当たる。

 

 ジュベントゥージは93年からイタリアの食品メーカー、パルマラットの出資を受けていた。

 

 パルマラットは、スポーツビジネスに力を入れており、地元イタリア、セリエAのACパルマ、サンパウロのパルメイラス、アルゼンチンのボカ・ジュニオルス、ポルトガルのベンフィカなどともスポンサー契約を結び、サッカー界の一大グループを形成していた。

 

 パルマラットの後押しでジュベントゥージは98年シーズン、グレミオやインテルナシオナルなどの強豪クラブを退け『ヒオ・グランジ・ド・スール州選手権』で初優勝を飾っている。

 

 優勝メンバーには後にジュビロ磐田、横浜F・マリノス、大宮アルディージャに所属した、ホドリゴ・グラウがいる。グラウはグレミオからジュベントゥージにレンタル移籍していたのだ。

 

 ブラジルのクラブの一番の問題は、資金不足による給料遅配である。その意味で、パルマラットという後ろ盾のあるジュベントゥージは悪くない選択だった。

 

 海外移籍は非常にデリケート

 

 森山はジュベントゥージと正式契約を締結、クラブの一員として選手名鑑にも名前が載った。

 

 ところが――。

 

「給料は出ているのに、試合には出られない。この年、移籍した外国人選手はみんな労働ビザが出なくて困ったんです。出たのはパルメイラスに移籍した(元コロンビア代表のファウスタノ・)アスプリージャぐらいでしたね」

 

 ジュベントゥージの就労ビザ申請が却下された理由は分からない。

 

 結局、森山はサンフレッチェ広島に移籍、日本に帰国することになる。ポルトゲーザ、ジュベントゥージの両クラブから力を認められながら、試合に出場することができなかったのだ。

 

 森山は『サッカー批評 Issue42』でこう語っている。

<ポルトゲーザのサッカーは本当に楽しかった。いい動きをすれば、必ずパスは出て来る。その代わり、常にポジショニングや、動きだしのタイミングを考えるから、頭は本当に疲れました。それに比べれば、ジュベントゥージは、ロングボールを多用して、欧州的なスタイルでしたね>

 

 99年シーズン、ジュベントゥージはカップ戦『コパ・ド・ブラジル』を初制覇している。

 

 もし、森山がジュベントゥージに居続けていれば、ブラジル全土はもちろん、欧州のクラブのスカウトの眼に留まったかもしれない。そうなれば彼の人生は大きく変わったことだろう。

 

 森山には世界的なサッカー選手としての階段を上る、ちょっとした運がなかった。

 

 この時期、稲川はもう一人の日本人選手の国外移籍を手掛けている。

 

 ヴェルディ川崎の強化部にいた小見幸隆からこう頼まれたのだ。

――ちょっとゾノを助けてやってくれないか。

 

 横浜フリューゲルスからヴェルディに移籍した後、燻っていた前園真聖である。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)など。最新刊は『ドラガイ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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