それまでの順調に口笛を吹きながら歩んできた人間が、ある時期から躓きを繰り返し、坂を下っていくことがある――。

 

 1996年、アトランタオリンピックで日本代表はブラジル代表を破った。そのピッチでキャプテンマークを巻いていた前園真聖の前には輝かしい未来が待っているはずだと誰もが思っていた。

 

 オリンピックの後、国外移籍を熱望していた彼の元にスペインのクラブから獲得したいという打診が届いた。これに対して所属する横浜フリューゲルスは3億円を超える規定の移籍金を要求したと報じられていた。高額の移籍金に相手は尻込みし、話は霧散した。

 

 ヴェルディに移籍した理由

 

 97年1月、前園はヴェルディ川崎に移籍。ヴェルディからフリューゲルスに2億円を超える移籍金が支払われたという。ヴェルディは三浦知良をイタリアのジェノアに送り出していた。この移籍と同じように、スポンサーを絡めて国外に送り出すという道筋を考えた人間がいたのだろう。

 

 この時点で日本代表は一度もワールドカップに出場していない。Jリーグはある程度の成功を収めていたが、純粋なピッチの中の評価は、やや強くなったアジアの弱小国に過ぎなかった。日本人選手たちは、選手個人の能力よりも、日本企業がスポンサーになるという“お土産”を連れてくることを期待されていたのだ。

 

 結果として、前園の国外移籍の“前段階”であった、ヴェルディ移籍は失敗だった。

 

 ヴェルディの主力選手の力は衰え始めていた。加えて個性の強い選手が揃っており、人間関係が複雑だった。その中で前園は輝きを失った。

 

 オリンピック代表時代から前園を高く評価していた監督の加藤久は低迷の責任を取らされ、解任。ブラジル人監督のバウディール・エスピノーザが後を継いだが、ファーストステージ16位、セカンドステージ12位という散々な成績だった。

 

 高額の移籍金を前園は批判の矢面に立たされることになった。この年の11月、日本代表はマレーシアのジョホールバルで初めてのワールドカップ出場を決めている。そこに前園の姿はなかった。3月の親善試合以降、代表からは遠ざかっていた。

 

 98年シーズンからヴェルディの監督にやはりブラジル人のニカノール・デ・カルバーリョが就任。ワールドカップの中断前までは9勝3敗と首位を走っていた。しかし、中断後に調子を落とし、6位で終わった。

 

 この時期について、前園は後にこう振り返っている。

<ニカノールは、基本的に中盤の真ん中でプレーするように、と言ってくれた。それは自分の理想のポジションだし、実際プレーしていて楽しかった。ドリブルでつっかけられたし、パスコースもいろいろあったからね。でも、ラモスさんが復帰して真ん中になって、僕は左サイドに移った。すると今度はエウレルや高木さんがケガをして、前でキープできる選手が欲しいということになった。最初はラモスさんがやっていたんだけれど、90分は苦しいのでやってくれと言われた。前でやるとボールを触る回数が少なくなるし、自分のリズムでプレーできなくなる。それにボールがこないと自然と下がってボールをもらいにいってしまうので前で勝負できないことが多かった>(月刊プレイボーイ 99年2月号)

 

 言葉を選びながら、ではあるが、年上の選手を立てなければならないという彼の状況が伝わってくる。これでは彼の持ち味である鋭いドリブル、味方を操る奔放なパスセンスを発揮できるはずもなかった。

 

 セカンドステージも負けが込み、ニカノールは解任。ニカノールは去り際、こう捨て台詞を残している。

 

「このチームは、派閥、干渉、足の引っ張り合いなど戦う以前の問題があまりに多すぎる。いくら私が苦心してチームを作ろうとしてもお互いを疑心暗鬼の目で見るチームがひとつにまとまるわけがない。これならば誰が監督でも一緒だ」

 

 前園を助けてやってくれ

 

 前園を助けてやってくれと、強化部の小見幸隆から稲川朝弘が頼まれたのはそんな時期だった。

 

 当初、稲川は乗り気ではなかったという。サッカー選手としての前園の才能は間違いないが、彼に関する“ビジネス”が先行しすぎているように感じていたのだ。また、芸能人のようにマネジメント事務所に頼り切っているのも、稲川の好みではなかった。

 

「実際に会ってみると、もの凄く素直で純粋な子だったんです。取材とかは人に頼むんじゃなくて、自分でコントロールすればいいじゃないかって言いました。前はスターだったかもしれないけど、今はもう斜陽だ。自分で出来るだろう。すると彼は“そうですね”って」

 

 そしてプレーの切れも落ちていた。

「出場が減って、ゲーム勘が落ちていたんでしょう、ただ、まだまだ衰える年齢じゃない。怪我もなかった」

 

 自分が代理人を務めていた石川康にも意見を求めてみた。すると石川からは「あいつ、場所を変えれば復活すると思いますよ」という返事だった。

 

 マネジメント事務所との折衝はヴェルディが行うこと、あくまでも自分はヴェルディからの依頼で代理人となるということを念押しして、移籍先を探すことにした。

 

「そのときはまだオリンピックでブラジルに勝ったという余韻が残っていたんです。そのチームのキャプテンだったことはブラジルでは評価してくれるはずだと考えたんです」

 

 稲川と組んでいたブラジル側の代理人、シルビオ・アキが持ち込んできたのは、ネルシーニョ・バチスタが監督を務めるサンパウロFCだった。ところがネルシーニョが解任、話は流れた。そこで浮上したのがサントスFCだった。

 

 サントスは、1912年に創立された。サンパウロ州選手権など国内タイトルの他、62年と63年にトヨタカップの前身であるインターコンチネンタルカップでポルトガルのベンフィカとイタリアのACミランを破って世界一となっている。その中心にはペレがいた。サントスの白いユニフォームを着たペレはブラジルサッカーの象徴だった。

 

「サントスはあのとき、ぱっとしない成績。でも、サントスはサントスですからね」

 

 サントスの監督を務めていたのは、エメルソン・レオンだった。

 

 レオンとの話がまとまり、前園は3カ月のレンタル移籍という形でサントスに加入することになった。

 

 94年生まれのレオンは70年、74年、78年、そして86年のワールドカップ4大会にブラジル代表のメンバーに入ったゴールキーパーだった。87年からレシフェのスポルチというクラブで監督を始めた。清水エスパルスとヴェルディ川崎でも指揮をとったことがあり、指導者としての実績、力は申し分ない。しかし、癖が強く、金銭にうるさい。敵が多い男だった。後にこのレオンが原因で問題が起こることになる――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)など。最新刊は『ドラガイ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


◎バックナンバーはこちらから