FA権を取得していた広島・丸佳浩の移籍先が巨人に決まった。「カープのいいものを持ってきてもらいたい」。交渉の席で巨人・原辰徳監督は丸を前にこう熱弁を振るった。それが巨人入りを決めた理由のひとつになったと1日付けの本紙が伝えていた。

 

 広島が2016年からリーグ3連覇を達成したのに対し、巨人は2014年から球団史上ワーストタイの4年連続V逸。先のコメントからは指揮官の切実な危機感が窺える。

 

「巨人の野球を(ウチの若い選手に)教えてやって欲しい」。創設されたばかりの広島の初代監督・石本秀一からそう口説かれ、広島に移籍した選手がいる。“逆シングルの名手”と呼ばれた白石敏男(後に勝巳と改名)だ。今から69年も前の話である。

 

 白石は巨人の第一期黄金時代の主力選手である。千葉茂との二遊間コンビは一世を風靡した。どんな選手だったのか。<ワシが二塁に入ってから、片手では数え切れんくらいのショートとコンビを組んだ。初代の白石から最後の広岡(達朗)まで、そのなかで誰と一番やりやすかったと聞かれれば「ワシにとっては、やっぱり白石以上のショートはおらん」と答えることにしている。>(千葉茂著『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社)

 

 いくら白石が広島の名門・広陵中学のOBだったとはいえ、よくそんな名手を巨人は手放したものだ。それについては、次のような記述がある。<新チームを読売も応援しなければならん、キミは広島の出身だから、郷土のチームを助ける意味で広島へ行ってもらいたい。巨人から出向という扱いにしておくから、帰りたい時は何時でも帰ってよろしい。>(自著『背番号8は逆シングル』ベースボール・マガジン社)。その昔、巨人は懐の深いチームだったのだ。

 

 プロ野球が2リーグに分立した1950年、広島カープが誕生し、白石は助監督兼選手としてチームを支えた。新興球団の選手たちが何より手本にしたのが顕微鏡のような白石の選球眼だったという。<第一球はどの投手でも一番自信のある球を投げてくるものだ。つまり打者にとっては打ちにくい球で、よほどの好球でないと打たない>(読売新聞1959年6月19日付)。白石同様、丸も悪球には手を出さない。丸の背中越しに白石の姿が浮かび上がってくる。プロ野球には時代を超えた「物語」がある。

 

<この原稿は18年12月5付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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