史上最大の混戦となった今季のJ2を制したのは、反町康治監督率いる松本山雅だった。

 

 11月17日、ホームのサンプロアルウィン。

 徳島ヴォルティスと引き分けて優勝が決まった瞬間、スタンドのボルテージは最高潮に達した。就任7年目となる指揮官は選手に胴上げされ、宙を舞った。

 

 彼はピッチであいさつの場に立ち、表情を引き締めた。

「来年は日本のトップリーグで戦うことになります。日本サッカー界の恩師デットマール・クラマーさんは『試合終了の笛は次の試合開始の笛だ』という言葉を残しています。(J1)開幕戦は2月26日と聞いています。その2月26日に向けて頑張らなければならない」

 

 反町監督は敬愛するクラマーさんの言葉を引用して、J1への意気込みを口にした。

 

 クラマーさんは「日本サッカーの父」として知られる。

 

 ドイツ・ドルトムント生まれ。1960年、日本代表コーチに招聘されると選手たちに基礎から叩きこんだ。64年の東京五輪ではベスト8に導いた。帰国の際にはJSLの創設、コーチ制度の確立など日本サッカーの強化、育成における改革を提言している。

 

 教え子たちの活躍によって1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得。日本サッカーの発展に尽力したクラマーさんは3年前、90歳で天国に旅立った。

 

「アステカの奇跡」から50年。今年10月には釜本邦茂氏、杉山隆一氏ら当時の選手たちが一堂に会して、記念パーティーが開催された。出席した日本代表の森保一監督も、クラマーさんが選手たちによく使っていた「大和魂」を胸に刻んでいるという。

 

 指導者が日本サッカーの父から学ぶべきこと。

 

 2017年2月に他界した日本サッカー協会元会長の岡野俊一郎さんが生前、思い出話を語ってくれたことがある。初対面のクラマーさんを東京・御茶ノ水の「山の上ホテル」に送り届けた際「私が担当するチームはどこにいるのだ」と言われたという。

 

「代表チームは修学旅行生が使うような旅館を宿舎にしていました。デットマールは『すぐ、そっちに行く』と言い出してね。いや、布団で寝て、朝食はご飯、生卵、塩鮭に味噌汁、昼はどんぶりもの、などと説明したうえで『いきなり日本の生活に入るのは無理だ』と僕も言ったんです。でも、デットマールは聞き入れませんでした。『選手と同じ生活をしなくて、どうやって気持ちが分かるんだ。明日からはそっちに行かせてもらう』とね。これが彼から受け取った最初のリクエストでした」

 

 選手を見る、選手を知る、選手の気持ちを理解する。

 

 この人なら日本サッカーを強くしてくれる。岡野さんはそう感じた。通訳、日本代表アシスタントコーチとしてクラマーさんを支え、2人は大の親友になっていく。

 

 基本重視、サッカー選手の心構え、戦術……。日本サッカーに強くなるイロハを植えつけてくれた。なかでも岡野さんが感銘を受けたのは、選手一人ひとりに対する向き合い方であった。

 

「夜、選手の部屋を回って、風邪をひかないように布団をかけてやっていました。テーピングを教えてくれたのも彼です。この時代は、ケガを怖がったらサッカーなんかやれないっていうような考えでした。でもデットマールは『誰かがケガをすれば戦力の低下になる。だからケガの予防をやっていこう』と。僕が薬局で大きな絆創膏を買ってきて、それを裂いて更衣室に張っておくんですよ。練習試合とかでケガをするとね、彼自身が薬を調合して患部に塗って、包帯を巻いたり、テーピングをしたり……。練習は厳しい。でも、何より選手を大切にしました。それが選手たちも伝わっていったから、心酔していったんです」

 

 厳しくも温かい。それこそが求心力を生み出していく。

 

 反町監督、森保監督など多くの日本人指導者にクラマーさんの影響を感じる。時代が移っても、大切なものは変わらない。デットマール・クラマーさんの教えは、日本サッカーにとって“永遠のバイブル”である。


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