皆さん、お久しぶりです。白寿生科学研究所の松修康です。12月に入って全国的に一気に寒くなりました。これから年末に向け、お身体にくれぐれも気をつけてお過ごしください。


 さて今回は私が特別気になっていることを書きたいと思います。それはマリナーズのイチロー選手のことです。プロ野球もメジャーリーグも今は契約交渉、FA移籍、トレードなど来季に向けて動き出しています。そんな中でイチロー選手に関してはあまり情報が入ってこないので勝手に心配しています。来季、日本で行われる開幕戦ではスタメン復帰と報じられていましたが、その後はどうするのか。現役を続行するのかどうか、非常に気になっています。

 

 私とイチロー選手の出会いは、2009年に行われた第2回ワールドベースボールクラシック(WBC)でした。私はバッティングピッチャーとして帯同し、そこでイチロー選手と接することができました。イチロー選手は宮崎のキャンプからバッティングピッチャーを気にかけて、気さくに話しかけてくれたものです。宮崎キャンプで私はイチロー選手には投げませんでしたが、東京に移動してからはスタッフ数も減り、必ずイチロー選手に投げなければならないことになったのです。正直、私はビビリました。

 

 というのもWBCに向けて、連日スポーツ紙の一面はイチロー選手で、もし私が投げて調子を落とすことがあったらどうしよう、と不安になりました。幸いにもイチロー選手は練習でポンポンとスタンドインを連発してくれてホッとしたことを思い出します。

 

 2次ラウンドから舞台はアメリカに移り、バッティングピッチャーは3人しか帯同しなかったので毎日、スタメン選手に投げることになり、これもすごくプレッシャーでした。疲労もピークのはずがなかなか寝付くことができずに、夜な夜なホテルのテラスに出てスタッフ、コーチ、そして選手たちと夜更けまでいろんな話をしたものです。

 

 日程が進むとグラウンドでも全員が口数が減り、異様な雰囲気になっていました。試合中は選手全員が緊張していて、中には手足が震えるほどのプレッシャーに耐えて必死に戦っている選手もいました。あの緊張感や雰囲気はそれまで味わったことがなく、私も選手でもないのにまったく落ち着かなかったものです。

 

 そんな中、イチロー選手は毎日、誰よりも早くグラウンドに来てルーティンをこなし、入念に準備をしていました。この大会では練習試合からなかなか調子が上がらずに苦しんでいたイチロー選手ですが、試合に向けての準備はいつも変わることがありませんでした。時計を見なくてもイチロー選手を見ていれば時間が分かる。それくらい、毎日、ルーティーンを黙々とこなしていたのです。

 

「さすがイチロー選手ともなると、国際試合でも緊張とは無縁なんだな」なんて思ったほどです。しかし、それは勘違いでした。

 

 韓国との決勝戦、延長10回にイチロー選手の勝ち越しツーベースが飛び出し、日本代表は2回目の"世界一"を手にしました。ロッカーに戻ってシャンパンセレモニーがあり、そのときに見たイチロー選手の表情は何かから解放されたようで、笑顔も決勝前までとは全然違うことに気が付きました。

 

 イチロー選手もずっと押し潰されそうなプレッシャーと戦っていたんでしょう。でも、それをまったく感じさせずにルーティンをこなしていた姿は、本当にストイックな侍のようでした。世界一になるための舞台で結果を残すには、強靭な心を持ち、さらに自分との戦いにも勝たないとダメなんだなとイチロー選手に教えていただいた気がします。

 

 それにしても、あのときの興奮は今でも忘れることができません。私は最後に決めるのはイチロー選手であってほしいと願っていましたが、選手たちも当然、同じ思いでした。延長10回の攻撃は、まさにイチロー選手につなぐためにチームが団結。そしてイチロー選手は粘りながら、勝ち越し打を放ちました。あの場にいたことは一生の思い出です。

 

 2020年には東京オリンピックが開催されます。皆さんも是非、会場に足を運んで欲しいと思います。私がWBCで感じた選手たちがプレッシャーと戦い、そして結果を残したそのすごさを、野球に限らずたくさんの競技で体感できると思います。知らない競技でも現場にいたら、その雰囲気に引き込まれて、思わず歓声をあげ、そしてガッツポーズもしていることでしょう。

 

 私はWBCで世界一を目指す戦いを経験しましたが、オリンピックはどういうものなのか今から気になります。特に自分ひとりでプレッシャーとも戦うことになる個人競技に注目しています。野球を含めて日本人選手の活躍も楽しみです。

 

 では、今年、最後のコラムはこのあたりで。皆さま、良い新年をお迎えください。

 

<松修康(まつ・のぶやす)プロフィール>
1976年7月23日、神奈川県生まれ。中学時代まで地元・神奈川でプレー。高校は宇都宮学園高校(現・文星芸術大学附属高校)に進み、卒業後は東北福祉大学へ。99年、ドラフト2位で福岡ダイエー(現ソフトバンク)に入団した。00年10月、オリックス戦でプロ初登板。01年6月10日、オリックス戦で初先発し、6回1/3、1失点で初勝利。これがプロ唯一の勝ち星となった。04年、左の中継ぎとして自己最多の40試合に登板。05年、現役を引退。横浜DeNA、北海道日本ハムの打撃投手を経て白寿生科学研究所へ入社。現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアを支援する。


◎バックナンバーはこちらから