鹿島アントラーズがFIFAクラブワールドカップ(クラブW杯)にアジア王者として参戦し、ベスト4に進出しました。準決勝では2年前の決勝戦で延長の末に敗れたレアル・マドリードと再戦。1対3で敗れ、選手たちは世界との差を痛感したでしょう。それでも僕は胸を張って欲しいと思います。

 

 鹿島は準々決勝、準決勝、3位決定戦とクラブW杯で3試合を戦いました。大会を通じて、クラブW杯だからといって戦い方を変えることはせずにJリーグと同じ戦い方を貫いたなという印象を持ちました。では、大会を振り返りましょう。

 

 鹿島にとってのクラブW杯初戦の相手は北中米カリブ王者のグアダラハラ(メキシコ)でした。試合開始3分に左サイドを崩されて失点を喫しました。失点時間が早かったので、それほど慌てることもなかったと思います。選手間では「相手のペースは、90分は持たないはず。1失点ならいける」と声をかけあっていたようですね。結果的にDFリーダーの昌子源、GKのクォン・スンテを中心に前半を1失点に抑えたことが大きかったですね。

 

 後半4分にはクォン・スンテのグラウンダーのフィードからFWセルジーニョ、FW土居聖真とつなぎ、最後は長い距離を走ってゴール前に飛び込んだMF永木亮太が決めて同点に追いつきました。2点目はペナルティーエリア内で2、3人の相手に進路を阻まれながらも果敢に仕掛けて土居がPKを誘発。これをセルジーニョが決めて逆転しました。最後はMF安部裕葵の左サイドから右足でゴール右にカーブをかけたビューティフルゴールでダメを押しました。終了間際に1点を返されましたが、3対2で逃げ切りました。

 

 2点目のPKを誘発した土居は2列目の選手に落とすかなと思いましたが、あの状況でよく仕掛けました。DFとしてはエリア内で仕掛けられるのはやはり怖かったはず。こちらが意図していなくても足がかかってしまいファウルを取られるリスクもありますからね。土居は元々、ターンや仕掛けることに長けているプレーヤーです。彼の持ち味が大事な場面で生きましたね。

 

「我々は世界の4位なんだ!」 神の一声

 

 準決勝のレアル・マドリードの一戦は90分を通して止める、蹴る、そして判断スピードの違いを見せつけられました。この差を埋めるためには日々の鹿島での練習だけで埋まるのか……。そう考えると、僕は日本サッカー全体がレベルアップして切磋琢磨しないと、あのレベルには成長できないように思います。Jリーグの1クラブの努力だけであそこまでのレベルにはなかなか到達できない。各クラブの努力、Jリーグの成長が必須でしょうね。

 

 3位決定戦は南米王者のリーベルプレート(アルゼンチン)戦。開始6分で守護神のクォン・スンテが相手FWと接触し、負傷交代を余儀なくされました。戦術的理由以外で貴重な交代枠を使わざるを得なかったのは悔やまれます。スコアだけを見ると0対4ですが、内容としては惜しい試合だった。まさか鹿島の選手のシュートが4回もゴールの枠に嫌われるとは……。たった数センチの差で結果が別れました。これもサッカーの難しさだなと、改めて思い知らされました。

 

 大会が始まる前、ジーコテクニカルダイレクターは「参加するだけで満足するな」と選手たちに発破をかけたそうですが、大会が終わると「我々は世界の4位なんだ!」とメッセージを送ったそうです。ジーコは準備から手を抜かず、懸命に戦った選手を励ます指導者です。僕もジーコと同感です。選手やスタッフのみんなは精一杯、やれることをやったと思います。胸を張って欲しいですね。

 

 さて、早いものでもう年末。読者の皆様、今年も僕のコラムにお付き合いいただき、誠にありがとうございました。来年も楽しんで読んでいただけるようにがんばります。それでは皆様、良いお年をお迎えください。

 

●大野俊三(おおの・しゅんぞう)

<PROFILE> 元プロサッカー選手。1965年3月29日生まれ、千葉県船橋市出身。1983年に市立習志野高校を卒業後、住友金属工業に入社。1992年鹿島アントラーズ設立とともにプロ契約を結び、屈強のディフェンダーとして初期のアントラーズ黄金時代を支えた。京都パープルサンガに移籍したのち96年末に現役引退。その後の2年間を同クラブの指導スタッフ、普及スタッフとして過ごす。現在、鹿島ハイツスポーツプラザの総支配人としてソフト、ハード両面でのスポーツ拠点作りに励む傍ら、サッカー教室やTV解説等で多忙な日々を過ごしている。93年Jリーグベストイレブン、元日本代表。

*ZAGUEIRO(ザゲイロ)…ポルトガル語でディフェンダーの意。このコラムでは現役時代、センターバックとして最終ラインに強固な壁を作った大野氏が独自の視点でサッカー界の森羅万象について語ります。


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