入社2年目だった30年前の今頃は、年明けから始まる高校選手権の準備で大わらわだった記憶がある。当時のサッカー専門誌にとって、決勝戦が満員の国立競技場で行われる高校サッカー選手権は、年に一度にして最大のビッグイベント、かきいれどきだった。

 

 まだ日本にプロリーグはなかった。プロ化を検討しなければ、という声がないわけではなかったが、「そんなものは無理」という声が圧倒的だった。日本サッカーリーグや天皇杯の観客動員が高校サッカーに及ばない時代である。日本のサッカーは天皇杯の決勝と高校サッカーが「冬の風物詩」として認知されるのが精いっぱい。それが当時のわたしの偽らざる感情だった。

 

 たった30年前のことである。

 

 プロリーグを持たず、W杯どころか五輪にすら縁がなくなっていた日本のサッカーは、昭和の最終盤から平成にかけて激変した。いまや大半のサッカーファンにとって、日本がW杯出場することは、太陽が東から昇るぐらい当たり前のことになっている。

 

 世界というものに対する距離感も変わった。かつてキリンカップが日本代表と海外のクラブチームが対戦する場だったころ、わたしも含め、負けて悔しがるファンは皆無に等しかった。いや、当の日本代表の選手ですら、テレビや雑誌で見るスターとの対戦に胸を躍らせていたのだから無理もない。

 

 ところが、先のクラブW杯では、レアル・マドリードに負けたことで号泣している選手がいた。たった30年で、日本のサッカーは世界の頂点に立てなかったことを心底悔しがれる次元へと突入したのだ。

 

 この変化、成長の早さは、世界的に見ても相当に異例のはずだが、思えば、日本には明治維新からわずか27年後には清国と、37年後にはロシアと戦って勝利を収め、世界中を仰天させた歴史がある。過去に鑑みれば、さほど驚くことでもない、ということか。

 

 もっとも、世界に対する距離感を一変させたのは、サッカー界に限った話ではない。この30年で、昭和の時代には不可能だとされていたことをなし遂げた日本人アスリートの、何と多かったことか。

 

 野茂英雄はメジャーリーグを夢舞台から現実的な目標へと変え、大谷翔平はアメリカ人にもできなかったことをやろうとしている。黄色人種には不可能と言われた100メートル9秒台の領域には複数のランナーが足を踏み入れようとし、テニスのグランドスラムではついに日本人の女王が誕生した。

 

 日本人であることを世界で勝てないことの理由とする、日本人による日本人のための“ガラスの天井”は、いま、轟音とともに崩れ落ちようとしている。次の時代、世界の頂点は昭和よりもはるかに、平成よりもずっと、目指す人が増えるだろう。

 

 さて、今年は天皇杯の決勝が元日ではないため、ひょっとしたら人生で初めて、元旦からのんびりお屠蘇を楽しむことができる。それでは、来年も皆さまとスポーツ界にとって、良い1年となりますように。

 

<この原稿は18年12月27日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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