(写真:五輪3連覇の偉業を成し遂げた吉田は現役生活にピリオドを打った)

「練習している中でも若い選手たちに勢いを感じました。この子たちにバトンタッチしてもいいのかなと思うようになりました」

「改めて自分自身と向き合った時に、レスリングはすべてやり尽くしたという思いが強く、引退することを決意しました」

 1月10日、東京・京王プラザホテルで開かれた記者会見で“レスリング女王”吉田沙保里は正式に現役引退を表明した。約45分間、吉田に涙はなく晴れやかな表情で報道陣からの質問に答えていた。

 

 五輪3連覇、世界選手権13連覇、個人戦206連勝。女子レスリングにおける吉田の活躍については改めて詳しく説明する必要もないだろう。「霊長類最強女子」と呼ばれるほどの強さで世界を魅了し続けたのだ。

 

 筆者は同じ三重県出身ということもあり、ジュニア時代から吉田には注目してきたが、ターニングポイントとなった闘いは、やはり山本聖子戦だったと思う。

 1990年代、女子レスリングは、山本美憂の登場により脚光を浴びるようになっていた。そして美憂に続いたのが妹の聖子だ。世界選手権を4度制すなど、山本聖子は90年代後半から2000年初頭にかけて「無敵の女王」であった。

 

 2001年の『全日本学生選手権』女子56キロ級決勝で吉田は聖子と対戦した。年齢こそ2つしか違わないが、この時、すでに世界王者だった聖子に吉田は歯が立たずフォール負けを喫している。

 その年の12月『全日本選手権』女子56キロ級準決勝でも顔を合わせた。必死に喰らいつくも、吉田はまたしても聖子に敗れた。

 

 女子レスリングは新時代に突入

 

 この頃には、2004年アテネ五輪から女子レスリングが正式種目に採用されることが、ほぼ決まっており、世間からの注目が高まる。

「55キロ級で日本代表になるのは、やっぱり山本聖子だろう」

 それが大方の見方だった。

 

 この時点で吉田は聖子に対して、トーナメント戦においては通算5戦全敗。苦手意識が芽生えてしまってもおかしくない。ところが吉田は大一番で聖子を破った。2002年『ジャパンクイーンズカップ』55キロ級決勝で4-1の判定勝ち。この年、世界王者に就くと、五輪予選においても聖子に2連勝。立場を逆転させてアテネ五輪に出場し、その後の偉業につなげたのである。

 

 世界を舞台としての活躍が凄まじかったばかりに、吉田の闘いを振り返る際に山本聖子とのライバル対決にスポットが当てられることは、ほとんどない。だが、あの一番苦しい時期を、精神力の強さも伴って乗り越え、勝ち切ったことが、彼女の心に自信を宿したのだろう。

 

 伊調馨は、東京五輪出場に向けての苛烈な闘いに挑む決意をした。吉田は、晴れやかな表情で引退を発表し今後、後進を指導、精神的な支えにもなる。二人は異なる形で2020年までの女子レスリング界を盛り上げてくれるだろう。

 

 そして日本女子レスリングは新時代へと突入していく。

 

近藤隆夫(こんどう・たかお)

1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等のスポーツ番組でもコメンテーターとして活躍中。著書には『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文春文庫PLUS)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『キミはもっと速く走れる!』『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『キミも速く走れる!―ヒミツの特訓』(いずれも汐文社)ほか多数。最新刊は『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)。

連絡先=SLAM JAM(03-3912-8857)


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