現役時代、巨人、西武、中日と渡り歩き、いぶし銀のユーティリティプレーヤーとして鳴らした鈴木康友は、一昨年の夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、臍帯血移植などの治療を受けていた。医師からは「移植が成功しても治る確率は4~5割」と言われたが、治療後の経過は良好。昨年秋に医師から仕事の再開が許可された。「やれることはやはり野球だけ」と、現在、高校野球のコーチ、評論家活動などを積極的にこなしている。前回に引き続いて鈴木の「野球観」を聞いた。

 

 3アウト目のとり方

--鈴木さんは選手、コーチとして14回のリーグ優勝と7度の日本一を経験。印象に残っている日本シリーズは?

「7度勝って、7度は負けているわけですが、1990年に西武が巨人を相手に4連勝して日本一になり、2002年は反対に巨人が4連勝で西武をくだしました。どちらも"勝ち組"にいたのは僕と鹿取義隆さんの2人だけです。90年は現役、02年は原巨人1年目でコーチを務めていました。

 

 印象に残っているのは02年の第1戦、初回の西武の攻撃です。巨人の先発は上原浩治、西武の打順は1番・松井稼頭央、2番・小関竜也でした。シリーズ前から我々、巨人首脳陣は『初回、松井稼頭央が出塁したとき西武はどう出るのか。走らせるのか、それとも小関が送るのか』と、この1、2番の揺さぶりを警戒していました。逆にここを封じるかどうかが勝敗の分かれ目ということでもありました。

 

 初回、いきなり稼頭央がセンター前ヒットで出塁して、無死一塁。『さあ、どう出るんだ』と巨人ベンチもグラウンドも警戒レベルを引き上げて小関を打席に迎えました。ここで西武がとった作戦は送りバント。コツンと小関が転がした打球はキャッチャーの阿部慎之助の前へ。これを阿部が素手で捕って、迷うことなく二塁へ送球。審判のアウトのコールと同時に、阿部がガッツポーズしていたのを覚えています。あのプレーで巨人にグッと流れがきて、一気に4連勝までいけたんだと思っています。

 

 当時、巨人の野球はホームラン攻勢を軸にした空中戦でした。一方の西武はバントなど小技を絡めた地上戦が得意。小関のバントが大きく跳ねずに阿部の前に転がったのも幸いでした。あのとき東京ドームのアンツーカーは柔らかったんですよね。なぜそうだったのか? それはご想像にお任せします(笑)」

 

--さて、日本シリーズといえば昨年の福岡ソフトバンクの下剋上を鈴木さんはどうご覧になりましたか。
「福岡ソフトバンクは第6戦で日本一を決めましたが、あの試合で広島は2回裏の攻撃で流れを相手に渡した印象を受けました」

 

--2回とは序盤も序盤ですね。
「鈴木誠也のヒットなどで1死一、三塁のチャンスをつくりましたが、7番・野間峻祥が三振。続く石原慶幸の打席で一塁ランナーが二盗を仕掛けて二塁で憤死。いわゆる甲斐拓也の"甲斐キャノン"の前にシリーズ6度目の盗塁死でした。あの場面、走らせるのなら、三塁ランナーも動かしてダブルスチールでホームを狙わないといけない。先制点を狙うのもちろん、たとえ失敗しても本塁憤死ならまだOK。野球は3アウト目のとり方、とられ方で流れがガラッと変わりますから」

 

--とり方、とられ方ですか?
「はい。一、三塁で二塁ベースで盗塁死するよりも、ダブルスチールで本塁憤死の方がいいんです。"どうせ死ぬなら前のめりで"の坂本龍馬じゃありませんけど、野球はどうせアウトになるならいかに先の塁でアウトになるか、が大事なんです。ホームに近いところでアウトになるのは勝負した結果、でも二塁憤死では勝負とは言えません。勝負することで流れを変えられる。日本シリーズのような短期決戦は1つのプレー、1球で流れが変わりますから、本当に怖いですよ」

 

--野球の流れは攻撃で作るものですか?
「野球というスポーツは攻撃と守備がはっきりと別れています。守備側はどうやっても得点することはできませんが、流れを変えることはできます。たとえば1死一塁の場面をゲッツーで切り抜ける。二塁ランナーが追加点を狙って本塁突入してきたのをレーザービームで阻止する。ピッチャーがテンポよく三球三振に切ってとる。そういうアウトのとり方をすると確実に流れをつかむことができます。野球は点取りゲームですが、守備側から見ればどうやって27個のアウトをとるかを考えるゲーム。だから"アウトのとり方、とられ方"が大事なんですね」

 

 鈴木にはこの他にも東北楽天コーチ時代に仕掛けた「フォースボーク」の話も聞いた。

 

「打線は下位だけど、どうしても1点が欲しいときに仕掛けるプレーです。条件は一、三塁で相手ピッチャーは左投げ。一塁ランナーがピッチャーの牽制を誘うように飛び出し、三塁ランナーがホームに突っ込みます。プレートを外さない牽制は途中で止めれば自動的にボーク、だからフォースボークと呼ばれます。星野仙一監督が東北楽天で最後の年、"サインは好きなように出せ"と三塁コーチの僕に言ってくれて、いろいろとやらせてもらいました。フォースボークも一度やりましたよ。ただそのときは一塁ランナーがピッチャーの見ていないタイミングでスタートをしたので、ホームアウトでしたけどね。しかもバッター松井稼頭央だったから、あとで謝りましたよ。『お前を信用してなかったわけじゃない。すまん』と、ね。失敗も成功も、長い野球人生いろいろですよ」

 

 この後、話題は自らが日本シリーズで放った起死回生の決勝打(91年)などにも及んだ。野球のプレーに関する知識とその記憶力は球界随一との評判は伊達ではない。「現役時代からレギュラーではなくベンチで野球を見てばかりいましたからね、アハハハ」と謙遜するが、難病を乗り越えた鈴木は野球界にとって代えがたい人材である。また機会があれば"球談"をお届けしたい。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高から77年にドラフト5位で巨人に指名され、翌年入団。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。主に守備固めとして活躍し、92年に引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年よりBCリーグ・富山サンダーバーズ初代監督に就任した。10年~11年は埼玉西武、12年~13年は東北楽天、14年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、徳島インディゴソックスの野手コーチを務めて独立リーグ日本一に輝いた。契約満了と病気療養のため同年限りで退団。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部コーチに就任した。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝は14回、日本一に7度輝いている。

(取材・文/SC編集部・西崎)


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