皆さん、新たな年を迎えていかがお過ごしでしょうか。2019年、本年もよろしくお願い申し上げます。これからもこのコラムを通じて楽しく、面白く、マジメに、ときには涙を誘う(!?)話題を提供できるよう頑張りますので、引き続き白球徒然~HAKUJUベースボールスペース~をよろしくお願い致します。

 

 さて今回は、前回お約束したとおり昨夏、秋田県が生んだ甲子園のヒーロー、金足農・吉田輝星投手の秘話をお伝えしましょう。話は私が吉田投手と出会う前、甲子園出場をかけた秋田県大会にさかのぼります。

 

 昨夏の大会は100回という節目にあたり、大会前から「今年は盛り上がるぞ」と私も周囲も感じていました。「母校はどうなるかな」などと翌週開幕の県大会を楽しみにしていたある日、仕事中に突然姉から電話がありました。「父が亡くなった……」と。電話を受けたときは現実を受け入れることができず気が動転し、それと同時にまだ父と対面を果たしていないので冷静な感情があり、すぐに通夜や葬儀など日程の確認を家族と話し合った記憶があります。その後、家に帰りひとりになると父との色々な情景が脳裏に浮かび、その日は一睡もできないまま故郷へ向かいました。

 

 秋田に到着し、病院で父と対面すると、ようやく"オヤジの死"を実感して、溜まっていた感情があふれました。

 

 ここ数年は父とは連絡を取り合うこともなく、顔を合わせることもありませんでした。父は亭主関白・頑固一徹なところが大いにある、いかにも昭和を漂わせる典型的なオヤジでした。歳を重ねるごとに頑固さが増し、家族でさえも遠ざけてしまいがちになり、最後の方は疎遠な関係性になっていました。でも、そうはいっても家族は家族。何も音沙汰がなければ元気に生きている証拠という気持ちもあり、近年は連絡をしないながらも心の片隅でいつも気には掛けておりました。そして今回の知らせ。電話が来たときには、まさかこのような連絡とは思ってもみませんでした。

 

 葬儀などを終え、一段落した秋田での朝、新聞を広げると「秋田県大会いよいよ開幕」との記事が大きく載っていました。その日の午前中は特に予定がなく、秋田県内の各高校の監督にご挨拶がいっぺんにできると考え、開会式が行われるこまちスタジアムへ向かいました。

 

 恩師や高校時代にお世話になった各校の監督、そして同年代で監督やコーチをしている方など、地元で頑張っている野球人の皆さんと久しぶりに会うことができました。そんな中、金足農のユニフォームを着た方が私に近付いてきました。ご挨拶すると、なんとその方は私の1学年上の金足農OBであり、現在は同校コーチを務めているとのこと。すぐに金足農・中泉一豊監督を呼んでくれて、現役当時の苦しい練習の話や、我が母校・秋田経法大付属(現・明桜)と金足農の因縁の対決話など大いに盛り上がりました。実は私が高2のとき、1993年の秋田県大会決勝は秋田経法大付属と金足農の対戦でした。そのコーチも3年生で出場しており、こっちは勝って甲子園出場を果たし、コーチのいた金足農は惜しくも……。そんなことにも話が及んだものです。

 

 別れ際に「私は秋田の代表が甲子園の舞台で旋風を巻き起こすくらいの活躍するのであれば、どの高校が出場しても良いと思ってます! それが金足農であれば嬉しいですね!」と監督とコーチに向かって発言してしまいました。今となってはとんでもないことを口にしてしまったな、と思っています(笑)。

 

 さて、私のその発言が功を奏したのか、金足農は見事に秋田県大会を制しました。20年ぶりの再会にご縁を感じて、金足農の陣中見舞いにと練習場に足を運んだのが吉田投手との出会いでした。その日は彼の父親ともお会いして話をさせていただくと、1歳年上の金足農OBであることがわかりました。秋田の元球児として自然と打ち解けて話せるようになり、吉田投手の進路にまで話していただけました。その内容についてすべてを話すことはできませんが、甲子園出場前は大学進学が前提であり「プロという選択肢もあるが、どこまで通用するか未知数です」と不安を口にされました。結果はそうした不安を払拭するあの大活躍。大会終了後にもう一度連絡をいただき、「甲子園での活躍で息子は道が開けました」と話してくれました。

 

 この陣中見舞い時はまだ「金足農フィーバー」以前でしたので、報道陣もファンもまばらで、吉田投手にも「悔いのないよう全力で向かい、楽しむために最善の準備をしなさい」とアドバイスを送りました。彼からは甲子園のことよりも私のプロでの経験に関することの方を多く質問され、今思えば、甲子園前から彼の気持ちはプロ野球に向けて着実に進んでいたんだなと思います。ドラフト後も会うたびに「何々はプロではどうなんでしょうか?」などと質問されました。常に貪欲であり、自ら学び、そして登り詰めようという意識の高さが伺えました。

 

 マインドがしっかりと整えばあとはそのプロセスをしっかりと着実に踏み出し積み重ねていく。吉田投手の姿に私自身も感化され、同じ郷土出身者として舞台は違いますが、"輝く星"をつかむため日々精進しなければならないと強く感じさせられたものです。

 

 亡くなった父は毎年夏、県大会が始まる時期になると「今年はあそこの高校が強そうだ」「今年はあっちの高校も甲子園を狙えるぞ」など話していたと、葬儀の後、母や姉が教えてくれました。父はそれほどに高校野球が大好きで、食い入るようにテレビを見ていた姿が思い浮かびます。

 

 今思えば、亡き父が「オレは今年の金足農の活躍は見られないから、お前が代わって間近で見届けろ!」と県大会前に言われたかのような、不思議な父の訃報と金足農とのご縁でした。

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。


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