1999年1月、前園真聖は5カ月契約でゴイアス・エスポルチ・クルービに移籍した。
ゴイアスは1943年設立。ブラジルの中央よりやや西、首都ブラジリアから約200キロの場所に位置するゴイアス州の州都だ。ブラジリアと同じように内陸地を切り拓いて作られた計画都市である。
『週刊宝石』は移籍後、<前園が再起を賭けるブラジル「弱小チーム」の窮状>というタイトルの記事を掲載している。
<「ここで結果を残さなければ、もう次はないでしょうね。ラストチャンスですよ」
とはサッカージャーナリストで『月刊カルチョ』編集部の富樫洋一氏だ。厳しすぎる見方のようだが、これが“ゾノ”の置かれた現実でもある。(中略)
ゴイアスというチーム、90年にはブラジル杯で準優勝。かつてはブラジル代表のFW、トゥーリオも在籍したことがある。しかし、最近はまるでパッとしない。
昨季のブラジル選手権では1部24チーム中22位。2部転落が決定した。
「弱小チーム。(ブラジルの)全国レベルになると、話にならない」
サッカージャーナリストのゴイアス評だ。富樫氏も言う。
「ブラジル人の記者に、ゴイアスってどんなチームって聞いたら『テリブルチーム!(ひでえチームだよ)』って言うんです。設備も整っておらず、スタープレーヤーもいない。ここなら、前園がレギュラーになれて当然」>(99年2月25日号)
ゴイアスは力のあるクラブ
今も昔も日本人が仰ぎ見るのは欧州である。ブラジルについては代表チーム――セレソンに対する敬意はあれど、クラブチームは軽んじられがちだ。
ゴイアスのような地方クラブのスタジアム、クラブハウスの設備は貧弱である。クラブ文化の発達した欧州と比べると、大いに見劣りがする。しかし、ブラジルの財産は人だ。国内には名前を知られていない才能ある選手は転がっている。地方クラブがそうした選手を集めて突然、目覚ましい躍進をすることもある。
前園の代理人であった稲川朝弘は、ゴイアスをその可能性があるクラブだと見ていた。
「前線と中盤に、アラウージョ、アロイジオ(・シュラッパ)、アレックス・ディアス、そこに前園が入った。フェルナンドンはゾノの控えでベンチだったんですよ。すごくいいチームでした」
アラウージョは、後に清水エスパルス、ガンバ大阪でもプレーすることになる左利きの選手である。特にガンバ時代の爆発的な得点力を記憶する人は多いだろう。
アロイジオとアレックス・ディアスの2人は、99年途中からフランスの古豪サンテティエンヌ、2001年にパリ・サンジェルマンへ移籍している。すでに欧州の強豪クラブが密かに目を付ける存在であったのだ。
そしてフェルナンドン――。
2001年に彼もフランスへ渡り、名門オリンピック・マルセイユに加入。トゥールーズを経て、母国のインテルナシオナルに移籍。2006年にリベルタドーレス杯で優勝、日本で行われたFIFAクラブワールドカップに出場した大型フォワードである(2014年にヘリコプター事故で死亡)。
復活への手応え
ブラジルには、州選手権の他、全国規模のカップ戦、リーグ戦の3つの大会がある。ゴイアスのような州で飛び抜けたクラブが野心を燃やすのは、サンパウロやリオのクラブと対戦する後者2つの大会である。まずはカップ戦のコパ・ド・ブラジルが始まった。
1回戦の相手は、マラニョン州のモトクルービというクラブだった。アウェイでは2対3で敗れたものの、ホームで4対0と大勝し、2回戦に進んだ。前園は第2試合でフル出場している。
稲川は前園の復活に手応えを感じていたという。
「当時、日本ではブラジルのサッカー、特にゴイアスのような地方のリーグの試合を観る機会はなかったので、誰も知らなかったかもしれないけど、完全に復活していた。精神的にも肉体的にもタフになっていたし、彼の歴史の中でも、いい時代だったと思う」
2回戦の相手は、“古巣”のサントスFCだった。初戦を1対2で落としたが、サントスのホームで行われた2試合目を4対3で勝利、3回戦に駒を進めた。初戦では前園は先発し途中交代、2試合目では途中出場している。
この後、ゴイアスはゼ・マリア、フェリッペ、ジュニーニョ・ペルナンブッカーノ、ドニゼッチなどのブラジル代表経験者を擁するバスコ・ダ・ガマを下して、準々決勝に進出した。この結果を見れば、決して日本の週刊誌が評したような“弱小チーム”ではないことが分かる。
ただし――。
浮上した渡英のチャンス
前園はバスコ・ダ・ガマ戦には出場していない。
前園は『第二の人生』という著書でゴイアス時代についてこう語っている。
<環境はサントス以上に過酷でした。観客席がなく、ピッチを金網で囲っただけのフィールドで試合をしたこともあります。
ミスをするとサポーターから猛烈にヤジられますし、相手チームからの当たりも強烈。想像以上にタフな環境でした。それでも背番号10や11を背負い、デビュー戦で1アシストを記録するなど、最初はレギュラーに近い扱いを受けていたのですが、徐々に先発から外されてベンチスタートが多くなりました。若い選手を育てたいというのが監督の方針でしたから、レンタル移籍でやがて日本へ帰ってしまう選手よりも、伸び盛りの若手を使いたかったのでしょう>
稲川によると事情は少々違う――。
前園の望みである欧州移籍を叶えるために、稲川は移籍先を探していた。候補として名前が上がっていたのが、スコットランド、グラスゴーのセルティックFCだった。
前園が評価されたのは、“相対的”なものであったという。
「ブラジルのアンダー(20才以下ブラジル代表)に呼ばれていたフェルナンドンを押しのけてレギュラーになっていたことを面白いと言ってくれたんです」
スコットランドリーグは、イタリアやスペインの5大リーグと比べると力は落ちる。ただしセルティックは国内で飛び抜けた存在であり、欧州リーグに参戦できる可能性が高い。そこで力を見せることができれば、他国から声が掛かることも考えられる。
選手とクラブには相性がある。どんなに優れた選手でも、受け入れの土壌がなければ、ピッチの中で成功を収めることは難しい。
98年のワールドカップの後、中田英寿がイタリアのペルージャに移籍し、一定の結果を残していた。しかし、まだまだ日本人選手の評価は低い。まずは温かに受け入れてくれるクラブを選ぶことだ。
欧州の入り口としてセルティックは悪くない選択であると稲川は判断していたのだ。
稲川の努力が水泡に帰す
ところが――。
稲川は前園の所属事務所の社長から話がしたいと呼び出された。
前々回の原稿で書いたように、稲川は前園の代理人を引き受けるとき、あくまでもヴェルディ川崎の依頼で動くという条件をつけており、彼のマネージメント事務所とは一線を引いていた。それでもどうしても話がしたいというので稲川は渋々会うことにしたのだ。
まずはブラジルのクラブを紹介してくれたことに対する礼から始まった。自分たちにとって稲川は不可欠の存在であるとも言った。
話は本題に入った。
「どこのチームと交渉しているのか教えて欲しいと言われた。そうしたらしょうがない、言うしかないじゃないですか。そこで、グラスゴーのセルティックですって」
それを聞いた社長は顔を曇らせた。そしてこう言ったのだ。
「セルティックは前園のサッカーには合わない」
稲川はむっとした。
代理人とは、世界各国のサッカークラブの需要と供給のバランスの中で、選手のために最適な選択となるように動くことが仕事だ。他の選手の動き、時期、チーム編成など様々な変数が関わってくる。自分は可能な限りサッカーを見て、関係者に会い、話を聞いてきた。そして気がついたのはサッカーという競技の奥深さだ。知れば知るほどに分からなくなる。
合う、合わないという安易な言葉を使うほど、サッカーという競技を分かっているのならば、なぜ最初から自分たちでやらなかったのか。前園の力が戻ってきてから、口を挟むのはあんまりではないか。はらわたは煮えくりかえっていたが、その場は抑えることにした。
翌日、稲川のところにセルティックの関係者から連絡が入った。
「中田英寿の代理人をグラスゴーに飛ばして、おたくとはやりませんと言わせた。移籍を潰しに来たんです。それで終わりですよ」
恐らく、先方にはより前園の“商業的価値”を上げるであろう、意中のクラブがあったのかもしれない。ともかく信頼できる相手でなければ仕事はできない。稲川は前園から手を引くことにした。
その後、前園は欧州のクラブのテストを受けたが、話はまとまらなかった。結局、J2に降格した湘南ベルマーレと契約。その後は韓国リーグへ。彼がサッカー選手として再び輝くことはなかった。
(つづく)
■田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)など。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com
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