国外移籍したクラブに馴染めるか、排除されるか――。

 

 その成否は移籍初期の段階に決まる。どこの国でも外国人選手に対する目は厳しい。特に攻撃的な選手の場合、得点を挙げる、あるいは得点に絡むことで、自らの存在を周囲に認めさせなければ、生き残って行くことはできない。

 

 その意味で前園真聖のサントスFCの第一歩は、これ以上ないものだった。

 

 1998年9月26日のヴェルディ川崎対ヴィッセル神戸戦の後、前園はブラジルに向かった。サントスへの3カ月間のレンタル移籍という契約だった。ところが、就労ビザ取得に手間取ることになった。

 

 この時期について、ぼくは2006年11月に前園から話を聞いている。

 

 ブラジルに着いてからずっと走らされてばかりだったと苦笑いした。そして、ブラジルのサッカークラブという環境にも面食らったという。

「ブラジルには(選手として)一度行ってみたかったんです。ところが、クラブハウスは掘建て小屋みたいなもので、雨が降ったときしかシャワーは出ない。J(リーグ)の環境ってすごいんだなって感じました」

 

 上々のブラジルデビュー

 

 約3週間後、ようやく就労ビザが下りると、すぐにベンチ入りした。

 

 10月18日、ブラジル全国選手権、第25節のサントスは本拠地にポルトゲーザを迎えた。前節終了時点でサントスは2位、ポルトゲーザは3位につけていた。この年のブラジル全国選手権では上位8チームが決勝トーナメントに進出するという方式だった。サントスはこの試合で勝ち点1以上を挙げれば、決勝リーグ進出が決まった。

 

 サントスの先発メンバーにはゴールキーパーのゼッチ、ボランチのナルシーゾ、ビオラといったブラジル代表経験者、後にイタリアのユベントスに移籍、代表にも選出される若き左サイドバックのアチウソン、湘南ベルマーレでプレーすることになるエドワルド・マルケスなどが名を連ねていた。

 

 一方、対戦相手のポルトゲーザには、横浜フリューゲルスでプレーした長身のフォワード、エバイールが所属していた。

 

 サントスの本拠地、ビラ・ベルミーロはクラブの世界的な名声を期待して行くと拍子抜けするほど、古ぼけて、こぢんまりとした田舎のサッカースタジアムである。この日の公式観客数は、1万2013人。もっとも、チケット収入を誤魔化すことの多いこの国では公式記録はあまりあてにならない。ブラジル全国選手権の決勝リーグ進出の懸かったこの試合には2万人ほどの観客がスタジアムに詰めかけたと思われる。

 

 前園は本拠地のビラ・ベルミーロについて、こう教えてくれた。

「芝は良くない。かなりぼろほろ。でも、あの雰囲気は日本にはない。小さなスタジアムですけれど、あそこでやる気持ち良さは忘れられないです」

 

 一息おいて、強く息を吐き出すように言った。

「日本にいたときは試合に出られないと楽しくなかった。内容がどうとかよりも、出ないと楽しくない。でも、あの頃はベンチにいても楽しかった。サッカーがまた好きになりましたね」

 

 前園がピッチに出てきたのは、後半20分のことだった。

 

 前園は『月刊プレイボーイ』(99年2月号)でサントスの熱狂的なサポーターたちが自分を出せと声援したことが、出場に繋がったと振り返っている。

<今でもサントスのサポーターの声が自分の出場を後押しをしてくれたんだと思うよ。あの状況で、あの声援で出さないと(※筆者注 監督の)レオンがサポーターにやられるからね。レオンからは、右サイドの前に切り込んでチャンスを作れって言われたけど僕はゴールしか狙っていなかった>

 

 前園は自分の置かれた立場を良く分かっていたのだ。

 

 彼はこのインタビューでこう続ける。

<僕は相手のボールを奪って味方に預けて、左に回って前に行くとパスが出て、ワントラップして右足でシュートを打った。狙いはゴールの隅だったんだけれど、相手がスライディングした足に当たって入った感じ>

 

 このとき、前園は初得点を挙げた嬉しさよりも、次の試合は先発メンバーに入れるだろうかと考えていたという。

 

 試合は後半にポルトゲーザが1点を返して同点で終わった。それでも勝ち点1を加え、決勝トーナメント進出を決めた。翌日、ブラジルのスポーツ新聞では前園のデビューを大々的に報じた。

 

 続く10月24日のパラナ戦、28日のアメリカ戦で途中出場。1試合欠場の後、11月12日の予選リーグ最終戦のボタフォゴでもやはり途中出場。

 

 しかし――。

 

 決勝トーナメント1回戦、準々決勝のスポルチ戦の3試合ではメンバー入りさえしなかった。

 

 前回、今回の連載で引用した『月刊プレイボーイ』の記事は、前園と親しいスポーツライターの佐藤俊によるものだ。

 

 佐藤は前園の“メンバー落ち”の理由を監督であるレオンにぶつけたと書いている。

<プレーオフ一回戦(対スポルチ戦)に入った時、前園のメンバー落ちの理由を聞くと、レオンは冷めた表情でこう言った。

 

「前園は、もともと能力のある選手だし、ブラジルに来てから徐々にその能力を発揮し始めている。今回のメンバー落ちはケガで復帰した選手を試すこともあり、それで外した。(メンバー落ちは)能力の問題ではない」>

 

 前園は佐藤に、短期間レンタル契約での移籍の難しさを吐露している。

<レオンは、3ヶ月なんてブラジルの環境に慣れるだけの期間だと思っているからね。僕を欲しいとか言うけど腹の底じゃ絶対に信用なんかしていないよ。チームの戦力としては考えていない。僕は、所詮、お客さんなんだよ>

 

 レオンの前園に対する評価は高かったが……

 

 代理人として契約をまとめた稲川朝弘にこの一件を問いただすと「レオンがね……」と複雑な表情になった。

 

 レオンは監督としての実績だけを取り上げれば、名将に相応しい。しかし、毀誉褒貶半ば――いや、圧倒的に敵が多い。

 

 例えば、元ブラジル代表のソクラテスは、ぼくがレオンの話をすると「俺の前でその名前を出すな」と不機嫌な顔になり、「神は人を作り、悪魔がレオンを作った」と吐き捨てるように言った。

 

 彼が嫌われるのは、その率直な物言いに加えて、金の匂いをぷんぷんとさせているからだ。ブラジルの監督の中には、監督と同時に、密かに選手の“代理人”的な役割を務めている者がいる。レオンはその1人だとされている。

 

 レオンには97年11月に話を聞いたとき、前園の話になった。この時点では自分のチームに来るとは思っていなかっただろうが、レオンは前園を高く評価していた。

 

 優秀な監督である彼は、前園を途中交代で起用してブラジルのサッカーに慣れさせようとした。初戦での得点もあり、その手応えは十分にあったろう。そこで金銭の話になったことは容易に想像できる。

 

 稲川、そしてもう1人の代理人であるシルビオ・アキはある一線を引いて交渉したはずだ。レオンはその条件を受け入れられないと決裂。前園は干されることになった。

 

 スポルチを下したサントスは準決勝でコリンチャンスと対戦することになった。

 

 バンデルレイ・ルッシェンブルゴが率いるコリンチャンスには、パラグアイ代表のガマーラ、コロンビア代表のフレディ・リンコン、ブラジル代表歴のあるバンペータ、マルセリーニョ・カリオカ、エジウソンなどを揃えた強豪チームだった。エジウソンは柏レイソル、マルセリーニョは後にガンバ大阪でプレーしたため、日本の人間にも馴染みがあるだろう。

 

 1試合はサントスがホームで2対1、2試合目はコリンチャンスがやはりホームで2対0。勝負は3試合目に持ち越された。サントスが勝ち抜くには、勝利が絶対条件。一方、コリンチャンスは引き分け以上で決勝進出となった。

 

 前園はこの第3試合のみ、途中出場している。そして、これがサントスでの最後の試合となった。1対1の引き分けだったのだ。前園は得点には絡んでいない。

 

 ちなみにコリンチャンスは決勝でクルゼイロを下して優勝している。

 

 前園にとっても、代理人の稲川にとっても、一口目は甘く、そして噛みしめると苦いサントスでの経験だった。

 

 そして稲川は前園の新たな移籍先を探すことになる――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)など。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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