稲川朝弘の代理人としての地盤が固まったのは、名古屋グランパスと継続的に仕事をするようになってからのことだ。

 

 トヨタ自動車という日本屈指の大企業の後ろ盾を持つグランパスはJリーグの中で最も資金力に恵まれたクラブの1つである。しかし、その結果が伴ってこなかった。

 

 それを変えたのがフランス人のアーセン・ベンゲルだった。1995年シーズンに天皇杯優勝、リーグ年間3位という好成績を残した。しかし、96年9月末にベンゲルが去った。ポルトガル人のカルロス・ケイロスが引き継いだこの年は年間2位に食い込んだものの、成績は下降線に入る。翌97年リーグ9位。その後、田中孝司が監督に就任、99年4月にはダニエル・サンチェスへと交代している。田中が監督の時代には、主力選手との衝突が表面化したこともあった。

 

 稲川は人の紹介でグランパスの役員と会うことになった。彼からグランパスの不調の原因について意見を求められた。稲川はベンゲルのサッカーという幻影にとらわれ過ぎているのではないかと答えた。

 

「ベンゲルのサッカーとは、簡単に言えば、(守備)ラインを上げて、チーム全体をタイトに、そしてコンパクトにして、流れるようにパスを回すこと。それには全員の統一に加えて、そうしたサッカーに向いている選手を揃えなければならない。しかし、そういうチーム編成ではなかった」

 

 この年、横浜フリューゲルスが消滅、日本代表だった山口素弘たちがグランパスに加入していた。山口、そしてディフェンダーであるがパスセンスのあるブラジル人のトーレスを生かすためにはボランチを2枚にして、守備を安定させることが必要だと稲川は考えていた。

 

「4-4-2で上手く構成してくれる監督がいい。それには日本のサッカーを知っているブラジル人がいいだろうという発想でした」

 

 何人かの候補の中で稲川が声を掛けたのが、ジョアン・カルロスだった。

 

 見事にはまった監督交代

 

 56年生まれのジョアン・カルロスは鹿島アントラーズの監督として96年の年間チャンピオン、97年シーズンはファーストステージ、ナビスコカップ、天皇杯を優勝。当時、日本で最も結果を残していた外国人監督だった。

 

 ジョアン・カルロスは鹿島との契約終了後の98年シーズン途中からアトレチコ・パラナエンセの監督に就任。翌99年からはアラサトゥーバ、ウニオン・サンジョンという小さなクラブを指揮していた。

 

 稲川は断られても仕方がないと思いながら、鹿島の4分の1以下の年俸を提示してみた。

「彼の方からすれば、もう一度、日本で力を見せたいと思っていたということもあったんでしょう。引き受けてくれた」

 

 この監督交代が見事にはまった。

 

 9月に就任してからリーグ10連勝、第2ステージ2位に躍進した。その勢いで天皇杯を制覇した。

 

 これにより力を認められた稲川は2000年から名古屋とコンサルティング契約を結ぶことになった。強化部と連携してチーム構成を考える、チーム側の代理人である。

 

 2000年シーズン、名古屋は開幕戦から4連敗。その後も調子が上がらず、ファーストステージは12位で終了した。

 

 シーズン終了後、稲川はジョアン・カルロスの意向を受けてブラジルに飛んでいる。目的は柱となるフォワードの獲得だった。

 

 FWの獲得を目指しブラジルへ

 

 フォワードのレギュラーはドラガン・ストイコビッチと呂比須ワグナーの2人だった。ストイコビッチの力は下り坂に入っていた。99年に移籍していた呂比須も監督にとっては物足りないものだった。控えにオリンピック代表に選ばれていた福田健二がいたが、まだ安定して力が出せる選手ではなかった。

 

 当初、稲川が目を付けたのは、ヴェルディ川崎にも所属していたエウレルだった。“風の子”という愛称を持つ俊足のフォワードである。彼は99年から古巣のパルメイラスに戻っていた。

 

 ところが――。

 

「ぼくが観に行ったとき、目の前でぶっ壊れたんですよ。前十字靭帯断裂。それで2番目の候補だったのがサントスにいたカイオ」

 

 カイオはイタリアのインテルナシオナルでもプレー、ブラジル代表経験もある童顔のフォワードである。このカイオも稲川が視察に行った試合で怪我を負ってしまう。

「顔面骨折です。それまで1カ月掛けて調査した2人が2週間ぐらいの間に壊れてしまった」

 

 なんてツキがないのだと稲川は思わず天を仰いだ。

 

 同時期、日本でも想定外の事態が起こっていた。

 

 第2ステージ早々も鹿島と磐田に連敗。以前からチーム内で燻っていた問題に火が付いた。

 

<名古屋が日本代表DF大岩剛(27)、同MF望月重良(26)、元日本代表MF平野孝(25)の主力3選手の電撃放出に踏み切った。4日、名古屋市内のホテルで小宮好雄副社長(60)が緊急会見し、既に3選手に戦力外を通告したことを明らかにした。3選手は残留の意思を持つものの、ジョアン・カルロス監督(44)は今後一切の試合出場機会を与えない方針。

 

(中略)

 

 3選手とジョアン・カルロス監督は以前からチーム戦術、練習法などに関する相違点があった。同監督は第1ステージ途中の段階で「(3選手が)私の目指す戦術を理解しない」と話していた。再三の話し合いにも両者の溝は結局、埋まらなかった。6月26日の練習前に望月、平野に対し、チーム練習から外れて再調整を命じた際、ジョアン・カルロス監督は「もうグラウンドに来なくてもいい」と、最初は練習着の着用さえ認めなかったという。1日の磐田戦で先制点を奪われた際に給水していた大岩にも、3日からは別メニュー調整を通達。以後はグラウンドに立ち入ることさえ禁じた。もはや修復は不可能な状況だった>(『日刊スポーツ』2000年7月5日付)

 

 託された外国人補強

 

 どちらに理があったかはともかく、チームは突然、3人の主力選手を失う形になったのだ。

 

 そして、稲川に託された外国人選手の補強は名古屋の浮沈を握る死活問題となった。

 

 稲川のところに、ブラジルの北東部バイア州の2部リーグに面白い選手がいるという情報が入ってきた。強烈なミドルシュートを持っており、高い得点能力があるという。稲川は州都サルバドール行きの飛行機に飛び乗った。

 

 実際に見てみると、その選手は重戦車を思わせる頑丈な体躯とスピードを併せ持っていた。さらには強烈なミドルシュートがある。

 

 稲川は自分たちにはまだ運が残っていたと思った。

 

 ただし、スペインの名門アトレチコ・マドリーからも声が掛かっているという。代理人としての腕の見せ所だった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)など。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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