ノックをするのもしんどいようではプロ野球のコーチは務まらない。少ないコーチでチームを切り盛りする独立リーグにおいて、ひとりでもコーチが欠ければ、試合にも支障をきたす。

 

 

 四国アイランドリーグPlusの徳島インディゴソックスでコーチをしていた鈴木康友は体に異変を感じながらも、休むことなく仕事を続けていた。

 

 階段を上り下りするだけで息が切れるので、最初は呼吸器系の病気ではないかと疑っていた。

 

 ところが、である。診断の結果は「骨髄異形成症候群」。医師には「鈴木さん、よく立っていられますね」と驚かれたという。一昨年夏のことだ。

 

 輸血をすれば、ひとまず体は楽になる。しかし、長くは続かない。

 

 昨年3月、意を決して赤ちゃんのへその緒から採った臍帯血を移植する手術を受けた。

「医師からは“たとえ移植が成功しても、病気が治る確率は5~6割です”と告げられました。それでも移植に踏み切ったのは、クスリの副作用がつらかったし、不安な毎日を送るのが嫌だったから」

 

 そして、鈴木は続けた。

「このままでは死ねない。自分は野球に育てられた。これまでやってきたことを、何かかたちにして残したい。それが野球に対する恩返しになる、と考えたからです」

 

 奈良の天理高時代から大型ショートとして嘱望されていた。早大への進学が「内定」していたが、3年生の秋、予期せぬ出来事が起きた。

 

 ドラフトで巨人から指名を受けたのである。監督は天下のスーパースター長嶋茂雄。「キミは僕の弟のような気がする」。こうまで言われてしまっては進学は諦めるしかない。

 

 背番号5――。高卒野手としては“破格”の背番号が与えられた。

 

 しかし、プロの水は甘くなかった。プロ入り3年目に1軍デビューし、レギュラーの座を掴みかけた時期もあったが、85年に西武にトレード、その後中日、再び西武と球団を渡り歩いた。

 

 鈴木にとっての幸運は長嶋茂雄に始まり、藤田元司、王貞治、広岡達朗、星野仙一、森祇晶と名将の下でプレーしてきたことだ。

 

 このキャリアがコーチになって生きた。NPBではのべ6球団で主に守備面を担当し、現役時代を含めると14度のリーグ優勝、7度の日本一を経験した。

 

 同級生ということもあり、彼とは現役時代からの付き合いだ。チーム強化、選手育成の“兵法書”づくりの手助けをしたいと考えている。

 

<この原稿は2019年3月22日号『漫画ゴラク』に掲載されたものです>

 


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