松修康(白寿生科学研究所事業開発部)第75回「引退の報せを受け、改めてイチロー選手の偉大さを知った」
皆さん、お久しぶりです。白寿生科学研究所の松修康です。4月に入って桜もあちこちで満開になり、新生活をスタートさせた若者の姿をあちらこちらで見かけます。私も、1日から人材開拓課から事業開発部に異動になりました。
前職は、アスリートのキャリア支援をさせていただき、その中で多くのアスリートと出合い、その中で一緒に悩みを解決し、将来のビジョンを作って就活に挑んでもらいました。そこで思ったのは、どんな道でも将来のビジョンがなければ、向かう先が見えずに頑張ることができないということです。
自分自身を振り返ってもビジョンがあるときとないときでは行動が全く違い、将来への思いがあると頑張ることができて、反対にそれがないときには言い訳ばかりを口にして諦めてばかりいました。その経験をいかして、私は学生に「思いをもって行動して欲しい」と必ず言っていました。
思いを持って就職活動はしている学生は、入社してからも頑張っていて、社会に出た後も連絡をくれて「今どんな事をしているのか?」と聞くと前向きな言葉が出てくるので、こちらもうれしい気持ちになります。逆にそうでない学生は入社してすぐに悩みの相談の連絡があることが多いです。
就活というのは人生が決まる大事なことだと強く思って、行動してもらいたいです。さて、前置きが長くなりましたが、ここから本題に入らせていただきます。
野球ファンが待ちに待ったプロ野球も開幕し、優勝に向けた戦いが始まりました。そんな中で衝撃な出来事だったのがイチロー選手の引退です。イチロー選手は何歳になってもずっと一線で活躍していたので、プレーしているのが当たり前だと思い、引退の日が来るなどと考えたこともなかったので、実際に引退すると聞くと、とても落ち込みました。
野球界にはイチロー選手に憧れて影響を受けた人が多くいますが、私もそのひとりです。高校時代はイチロー選手をマネて振り子打法で打ってみたり、ユニホームの着こなしもイチロー選手のようにしていました。大学に進学してからは「イチローモデル」のグラブを買って使用していました。ちなみに私のポジションは投手なのですが、グラブはイチローモデルの外野手が使うとても大きなグラブで、それでマウンドに上がるとチームメイトに「なんだ、なんだ」とバカにされたものです。
プロ野球に入ってから一番対戦したい選手もイチロー選手だったのですが、残念ながら対戦する機会はなく、私は引退。ところが運よく2009年WBCにバッティングピッチャーとして帯同し、毎日練習でイチロー選手と"対戦"しました。夢のような感覚で毎回、興奮していたのを思い出します。ちなみにこのWBCのときのことは当コラム第67回で書いてありますので、そちらも一読ください。
それにしてもイチロー選手の引退のニュースが流れてから、多くのアスリートが「影響を受けた」とのコメントを発表し、改めてイチロー選手のすごさを感じました。書店の自己啓発やビジネス書には、必ず著名人の名言集が置いてありますが、その中には必ずイチロー選手の言葉が載っています。聞くところによると経営者など企業のトップもイチロー選手の言葉に影響を受け、あとは教育の場面でも「イチロー語録」が生かされているとのことです。
引退記者会見を今振り返ってみても、あの中にも良い言葉がたくさんありました。特に夢を持って頑張っている人には良いメッセージになっていると思います。イチロー選手は残した記録も素晴らしいですが、それ以上に人に対する影響力が大きい野球選手でした。今後、何をするのか? そしてこれからも私たちにどんな影響を与えてくれるのか、とても気になります。
私も異動先の新しい部署で新たに勉強し、これまでに得た縁を大切にしながら全力で業務にはげみたいと思います。またどこかで皆さんとお目にかかることがありましたら、そのときはぜひ、声をかけてください。今回も読んでいただきありがとうございました。
<松修康(まつ・のぶやす)プロフィール>
1976年7月23日、神奈川県生まれ。中学時代まで地元・神奈川でプレー。高校は宇都宮学園高校(現・文星芸術大学附属高校)に進み、卒業後は東北福祉大学へ。99年、ドラフト2位で福岡ダイエー(現ソフトバンク)に入団した。00年10月、オリックス戦でプロ初登板。01年6月10日、オリックス戦で初先発し、6回1/3、1失点で初勝利。これがプロ唯一の勝ち星となった。04年、左の中継ぎとして自己最多の40試合に登板。05年、現役を引退。横浜DeNA、北海道日本ハムの打撃投手を経て白寿生科学研究所へ入社。現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアを支援する。