プロ野球が開幕して約1カ月が経ちました。千葉ロッテのドラ1藤原恭大選手が開幕スタメンを勝ち取るなどルーキーの活躍も目立っています。今回はオフから開幕直後までにまとめた取材ノートの中からレジェンドたちに振り返ってもらったルーキー時代のエピソードを紹介しましょう。


 まずは鈴木康友さんです。鈴木さんは78年にドラフト5位で巨人に入団しました。天理高(奈良)で4度、甲子園に出場した鈴木さんは大型内野手として鳴らし、早稲田大学への進学が決まっていました。それをドラフトで指名して口説き落としたのが当時の監督、長嶋茂雄さんでした。

 

 鈴木さんへの期待は与えられた背番号にも現われていました。背番号5。ドラフト制導入以降、巨人がルーキーにひと桁背番号を与えたのは鈴木さんが唯一です。

 

「まあひと桁の背番号というのは重いものでしたよ。2軍戦では選手の打ったバットを片付ける、いわゆるバット引きはルーキーの仕事です。それを背番号5のユニホームでやっていると、多摩川グラウンドのお客さんから『背番号5がバット引きかよ』とヤジが飛ぶわけです。それは大変なプレッシャーでしたね」

 

 さらに鈴木さんは続けます。
「一軍と合同で練習するとき、ショートに入った私がノックを受けて一塁に送球すると、そこには背番号1、王貞治さんがいるわけです。それで傍らには背番号90の長嶋さんがジーッと見ている。これは大変な世界に入ったな、とそのときに思いましたね。しかもいい送球をしないと王さんはなかなか捕ってくれない。だからストライク送球を心がけていましたが、幸い私は送球イップスにはなりませんでした。でも気の小さいルーキーだったら……。大物一塁手というのはルーキー野手にとっては大きなプレッシャーでしょうね」

 

 もうひとり、山崎裕之さんにも話を聞きました。山崎さんがプロ入りしたのは65年、ドラフト制度が導入される前でした。上尾高(埼玉)のショートとして春の甲子園に出場し、「長嶋二世」と呼ばれた山崎さんを巡っては複数球団が獲得競争を繰り広げました。オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)が用意した破格の契約金5000万円は当時、話題を呼びました。山崎さんに与えられた背番号もひと桁の「2」でした。

 

 今回、藤原選手の開幕スタメンを伝える記事には、「山崎裕之以来54年ぶり高卒野手スタメン」の文字が躍っていました。自身のルーキー時代を振り返り、山崎さんはこう語ります。

 

「開幕戦でヒットを打った藤原選手はさすがだなと思いましたよ。タイミングのとり方がルーキーとは思えないくらいしっかりしていました。私自身のことを振り返れば、"山崎を使え!"という当時の永田雅一オーナーの声があったからこその開幕スタメンだったんですよ。首脳陣は困ったと思いますよ(笑)。私も"こんなところでやれるのかな"と思って不安だらけでしたから。

 

 対戦するピッチャーは東映・尾崎行雄さんなどすごい投手ばかりで、球は速くてズドンとくる。さらに守備でも……。私はショートでしたが、ファーストがベテランの榎本喜八さん。ちゃんといい送球をしないと捕ってくれない。大変に厳しい先輩でした。それで緊張して途中から送球がうまくいかなくなった。今で言うイップスだったんでしょうね。5年目にセカンドにコンバートされて送球難は収まり、打つ方でも結果を残せるようになった。そのときになんとかプロでやっていけそうだなと感じましたが、最初、プロ野球は大変な世界だと思いましたよ」

 

 中日の根尾昂選手や広島の小園海斗選手など昨秋ドラフトは高卒ルーキーショートの当たり年でした。彼らもプロの壁にぶつかるのでしょうか? 山崎さんは「今の時代は大丈夫でしょう」と言い、こう続けました。

 

「私たちの時代と違って、今の若い選手は物事をよく知っている。野球についても大変な知識の持ち主ばかりです。それに先輩たちもそんなに厳しい人はいないから大丈夫でしょう。彼らにはスクスクと育ってほしいもんですね」

 

(取材・文/SC編集部・西崎)


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