8月15日で終戦から69年を迎える。
 先の戦争では、野球は敵性スポーツとみなされ、チーム名や用語から英語が排除された歴史がある。プロ野球、都市対抗野球、大学野球、春夏の甲子園大会も相次いで中止を余儀なくされた。沢村栄治、景浦将ら戦場で命を落とした名選手もいる。当時の球界を知る元選手が年々、少なくなる中、“フォークボールの神様”と呼ばれ、通算215勝をあげた元中日の杉下茂は、戦争による甲子園中止を体験し、約1年間、軍隊で中国にも渡った。戦争の記憶が風化しつつある今、杉下から貴重な証言を二宮清純が訊いた。
(写真:伝家の宝刀フォークについても「ナックルの一種、回転をかけないボール」と握りを交えながら説明してもらった)
二宮: 杉下さんの同年代では、同じ東京・日大三中に関根潤三さんや根本陸夫さんがいました。試合で対戦したことは?
杉下: やりましたよ。空襲をくらって都心で試合ができなくなったので、八王子にある帝京商業のグラウンドで日大三中と一緒にやりました。関根さんはピッチャーで、僕はファーストをやっていました。

二宮: 帝京商では全くピッチャーはやっていなかったとか。
杉下: ええ。小学校は投げていましたけど、帝京商に入ってから、ピッチャーのピの字もやっていないですね。ヒジが悪くて、痛くて放れなかった。それに後で分かったんですけど、結核も患っていた。だから練習もバッティングだけやって、守備は他の選手の3分の1か4分の1くらいしかできなかったんです。

二宮: 甲子園出場経験はありませんが、戦時下で大会自体が中止になっていた時期とも重なりますね。
杉下: 3年時は甲子園が中止になりました。4年時には文部省などの主催で開かれましたが、また5年時には戦争の影響で大会がなく卒業しました。実は1年時に帝京商は東京大会を制したのに、僕のせいで出場辞退になってしまったんです。というのも、今では考えられない話ですが、高等小学校時代はピッチャーで4番だったので、休学して帝京商に入っているんですよ。高等小学校と帝京商の話し合いで、そうするように言われて、野球は高等小学校で続けていた。それで東京大会で優勝した後、言われるまま、高等小学校を退学して今度は帝京商のメンバーとして中等学校の東京大会に出ました。それに他からクレームがついて出られなくなったんです。

二宮: 帝京商卒業後、昭和19年に軍隊に召集されています。
杉下: その年の初めに、いすゞ自動車に一度、就職しました。当時はヂーゼル自動車工業といって、戦車が軍用トラックをつくっていましたね。僕は事務職で12月に陸軍に入りました。それから終戦後も含め、昭和21年1月に復員するまで約1年間、中国にいました。僕は幹部候補生の試験に合格していましたから、中国では南京の予備士官学校に行く予定になっていたんです。ところが当時はもう戦局が悪化していて、学校へ行くための書類が届かない。船で送っても途中で沈没させられてしまうんです。仕方なく貨物廠で、いわゆる倉庫番をしていました。

二宮: 船が沈没させられる戦況なら、物資も不足して大変だったでしょう?
杉下: いえいえ、軍隊の生活は僕の体にとっては最高に良かったんでしょうね。軍隊の食い物がものすごく豊富でしたから。僕たちの部隊では豚も飼っていて、毎日のようにトンカツが食えた。3食きちんと食べられたので、復員した時は体重が100キロくらいに太っていました。むしろ復員して明治大学に行った時の方が食べ物には苦労しましたね。

二宮: 軍隊というと過酷な生活を想像しますが、全然、違ったんですね。
杉下: 向こうにいても、戦争らしい戦争はしたことがない。敵と出くわしたことがなかったんです。そういう恵まれた兵隊さんもおったということですよ。ただ、入隊して中国に行く前に渡されたのは、竹筒の水筒に、使えない拳銃でした。銃身に螺旋の溝が入っていないような代物で、そんなので弾を撃ったら暴発してしまう。靴もなくて地下足袋でしたね。中国に行くと、それなりの軍装はありましたが、最初はこんなので戦争に行くのかと思いましたよ。

二宮: 敗戦後も復員まで時間がかかりました。日本に帰るまでは苦労もあったのでは?
杉下: 僕らは正規軍、いわゆる国民党軍の捕虜になりましたが、そこでも食べ物は良かった。本当に恵まれていましたよ。終戦後、再び国共が衝突して、僕たちは両方から「オレたちのところへ来い」とスカウトされましたからね。八路軍だと日本の兵隊は将校、国民党軍だと下士官になれるという待遇でした。何人かそれで向こうの軍に行った者もおりましたよ。

二宮: 沢村栄治さんなどは手榴弾の遠投をやらされて肩を壊してしまったと聞きます。杉下さんは大丈夫でしたか。
杉下: 確かに肩を壊した人もいましたけど、僕の場合は野球に役立った面もありました。手榴弾は重い鉄の塊だから、普通の投げ方では放れない。しかも立って投げたら敵に撃たれてしまいます。匍匐前進しながら、20〜25メートル先のトーチカ(防御陣地)の銃眼目がけて放らなければいけない。放るには手を伸ばして遠心力を使って放る必要があるんです。鉄兜で信管をガンと突いて数秒後に爆発しますから、寝転がったまま円を描くようにドーンと放る。

二宮: つまり究極のオーバーハンド投法というわけですね。
杉下: 肩は丸くついているんだから、それを最大限使って投げる。ヒジは使わなくていいんです。それで復員後、野球をやったら、勢いのあるボールを放れるようになりました。先程、お話したように帝京商に行ってからはヒジが痛かった。高等小学校の軟式から、いきなり重い硬式ボールを投げさせられて、一生懸命放ろうとしたんでヒジを一発で痛めてしまったんです。帝京商の時はヒジを真っすぐ伸ばせなくて、「鉄棒にぶら下がってヒジを伸ばせ」と言われた時代でしたよ。それが手榴弾投げでヒジに負担のかからない投げ方が身についた。これは僕にとっては大きかったですね。最近のピッチャーはヒジを痛める選手が多いですよね? スライダーとか変化球をいろいろ投げるから、どうしても腕の位置が下がってくる。それでヒジに負担がかかるんです。田中(将大)君やダルビッシュ(有)君にしても、故障しないように、もう少し上から放ってほしいなと思いながら見ていますよ。

<現在発売中の講談社『本』8月号を含め、10月号まで杉下さんとのインタビューを4回シリーズで掲載予定です。こちらもぜひご覧ください>