皆さん、こんにちは。歳をとると月日が経つのが異常に早く感じてしまうと実感している今日この頃の小野仁でございます。お久しぶり! などと言えないほど2カ月という時間はあっという間に思えてなりません。普段から1日1日を大事に時間を使うことを心掛けていますが、それが本当に正しく大事に過ごしているのかどうか、いつも自問自答、反省と感謝の気持ちを胸に日々過ごしております。


 さて、この5月から元号が変わり、令和という新たな時代が始まりました。昭和から平成に変わった頃は私はまだ小学校6年生、時代の変化すらピンと来ない年頃でした。今回の改元にあたってそのときのことを思い出すと、平成と書かれた額縁を持った当時の小渕官房長官を、布団で包まれながらTVを見ていた記憶があります。そして、その思い出と同時に去年他界した親父の顔を思い浮かべました。

 

 私は生まれ育った地域にある小学校で1~6年生の2学期まで通い、あとは3学期を残すだけという時期でした。時代が平成に変わる直前、母親が急に家を飛び出し別居をするということになったのです。「もう一緒に父さんとは暮らせない」と母が家を出ることになり、当時は何が起きたのかも理解できずに、ただ母親の背中を追いかけるように一緒に実家を後にしたのを記憶しています。

 

 子供だった私に実家に残るという考えはなく、母と一緒に新しく住み始めた場所で平成に変わった瞬間を見届け、小学校6年生最後の3学期は新たな小学校で過ごし、そのまま卒業を迎えました。小学校時代に苦楽を共にした野球仲間と一緒に卒業できなかったという寂しさは今でも鮮明に覚えていて、結果、その野球仲間と野球を続けたい気持ちが強くなり、3月下旬には親父のいる実家へ帰り4月には慣れ親しんだ仲間と共に中学校へ入学しました。別居の続いていた両親でしたが、中学2年生になると母親も実家に戻ってきたというオチがつくのですが……。

 

 親父は俗に言う亭主関白で、非常に厳しく頑固でした。毎日怒られていた記憶だけが今でも残っていて、ビクビクした日々を送っていました。「遊んだ時間だけ勉強しろ!」といつも言われて、野球の練習後は家で腕立て伏せ、腹筋、素振りを決められた回数をやらされました。まさにスパルタ指導です。

 

 よく怒られてばかりだったので、私は親父に褒められようと一生懸命勉強にも力を入れて、野球も努力しました。ところがいくら良い成績を残しても褒められたことはありません。優勝しても試合の反省点をあげて、テングになった鼻をへし折るような言葉を投げ掛けられました。少年野球時代だけでなく、その厳しさは高校、社会人、プロ野球時代まで延々と続いたのです。甲子園出場を決めた試合では「四球が多い」、アトランタ五輪で銀メダルを獲得した際には「お前は何も貢献していない」、ジャイアンツでの初勝利をおさめたときも途中交代したことに触れて「最後まで投げ切れ」と頭をこづかれたりと、一度も「良くやった!」などと言われないまま野球人生を終えました。

 

 昨年、親父の葬儀で喪主を務めた際、「後悔をひとつあげるなら親父に褒められたかった」と挨拶で伝えさせてもらいました。

 

 結局、親父は他人様に言えるようなモノを全く残してはくれませんでしたが、ただ親父の他界をきっかけに家族の絆が深まり、今までになかった団結力を感じるようになりました。母がひとりになったことで私と姉、妹の3人それぞれが支えようと考え、住む場所が離れていても(姉は秋田、妹は岩手)、SNSを通じて、以前よりも連絡を取り合うようになり、より家族愛が大きくなったように思えます。私自身も小野家の長男として、家族を支えられる人間として日々成長し続けたいと思います。

 

 今回は子供時代の親父にまつわる思い出を書かせていただきましたが、皆さんにとって父親、そして両親の存在はどのようなものでしょうか? いなくなって改めてその存在の大きさに気づくこともあります。昨日(5月12日)は母の日で、来月には父の日があります。いつも隣に居たり、そばに居る人へ感謝の言葉を伝えてみてはいかがでしょうか? では、また次回、このコラムでお目にかかりましょう。

 

 

<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。


◎バックナンバーはこちらから