昭和の球場のヤジには下品なものが多かった。だが下品だからといって、それが必ずしも悪いものだとは限らない。中には“ザブトン一枚”と思わずヒザを打ちたくなるようなものもあり、今にして思えばあれはあれでちょっとした幕間の余興のようなものだった。

 

 巨人がV9に駆け上る時代の広島市民球場での話である。リードオフマンの柴田勲は出塁すると、おもむろに後ろのポケットから赤い手袋を取り出し、それを両手にはめるのだ。その仕草は“さぁ、走るぞ”という意思表示でもあり、たちまちのうちに市民球場は緊迫の色に染められるのだった。

 

 と、その時である。近くの席の酔っぱらいが聞き慣れたメロディーを口ずさみ始めた。〽あなたがかんだ 小指が痛い~ それにつられて、別のオヤジが歌い出す。〽昨日の夜の 小指が痛い~ ここで待ってましたとばかりにムーディーなメロディーをさえぎるようなヤジが飛ぶ。「おい柴田ァ、オマエが指をかんだんじゃろう!」「これ以上、ゆかりを泣かすな!」。内野スタンドはもう野球そっちのけ、爆笑の渦である。

 

 少年の私は腕組みをして隣に座っている父親に聞いた。「なんで皆、笑っているの?」。フンと鼻で笑って父親は言った。「子供はわからんでいい」

 

 酔っぱらいのオヤジが口ずさんだ歌は伊東ゆかりのヒット曲「小指の想い出」。1967年の「第9回日本レコード大賞」歌唱賞に輝いた名曲である。その頃、柴田と伊東が交際していたのを知ったのは、もちろんおとなになってからである。

 

 皮肉なことに、この歌に詞をつけた有馬三恵子は大のカープファンで1966年に結成された「カープを優勝させる会」のメンバーでもあった。

 

 若いカープファンは「小指の想い出」は知らなくても、〽カープ カープ カープ広島 広島カープ~ で始まる応援歌「それ行けカープ~若き鯉たち~」を口ずさんだことはあるだろう。あれを作詞したのも彼女なのである。

 

 言ってみれば、有馬は今をときめく「カープ女子」のはしりだった。マツダスタジアムでも赤いジャンパーに身を包み、観戦している姿が何度となく関係者から目撃されている。

 

 〽空を泳げと 天もまた胸を開く 今日のこの時を確かに戦い~

 

 さる4月18日、心筋梗塞のため死去、83歳だった。合掌

 

<この原稿は19年4月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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