平成のうちに書いておいた原稿が令和元日の紙面を飾る。その紙面をながめるのもまた乙なものだ。

 

 スポーツにとって平成とはどういう時代だったか。スポーツ中継視聴率ランキングが、それを端的に示している。ベスト5は、いずれもサッカー、それもW杯が占めた。1位・02年日韓W杯(日本対ロシア戦)66.1%。2位・02年同W杯(ドイツ対ブラジル戦)65.6%。3位・98年フランスW杯(日本対クロアチア戦)60.9%。4位・98年同W杯(日本対アルゼンチン戦)60.5%。5位・02年日韓W杯(日本対ベルギー戦)58.8%。視聴率だけを見れば、スポーツ界における平成は、まさしく“サッカーの時代”だった。

 

 サッカー人気沸騰の起爆剤となったのが93年5月にスタートしたJリーグである。「地域密着」を旗印に掲げるJリーグは「市民」「行政」「企業」三位一体による運営方針、支援体制を明確に打ち出し、それを実行した。

 

 その際、Jリーグは「フランチャイズ」という呼称を採用せず、「ホームタウン」に統一した。前者が「営業権」であるのに対し、後者は「地域権」という解釈の下、地域に根差したクラブづくりを推進した結果、10クラブでスタートしたJリーグは、J1・J2・J3合わせて55クラブにまで発展した。

 

 ピラミッドの頂点を高くしようと思えば、底辺を拡大するしかない。グラスルーツを重視する「ボトムアップ」だ。その果実が98年大会からの6大会連続W杯出場である。

 

 だがサッカーが成功を収めるまで、「学校」と「企業」に軸足を置いていた競技団体の多くは「ボトムアップ」よりも「トリクルダウン」を支持していた。すなわちトップチームが国際大会で結果を残せば、その波及効果により、底辺は自ずと拡大するという考え方である。

 

 果たして、そうだったか。 08年北京五輪銀メダリストで現日本フェンシング協会会長・太田雄貴の回想が教訓となる。「僕らはメダルをとったら人生変わるぞ、メジャーになれるぞ、と言われてきた。でも、メダルをとっても国内大会はガラガラ。強くなれば見てもらえるというのは幻想だった」(日本経済新聞4月14日付)

 

 令和のスポーツに必要な概念は根拠のない「幻想」ではない。100年先まで見据えた骨太の「構想」である。

 

<この原稿は19年5月1日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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