2000年からしばらく、稲川朝弘にとって雌伏の時間であったといえる。

 

 名古屋グランパスとコンサルティング契約を結んだことで、経済的な安定を手にしていた。しかし、そのグランパスの成績が安定しなかった。

 

 01年のファーストステージ、グランパスは3位という好成績を残している。ところが、ブラジル人監督のジョアン・カルロスが主力選手との“確執”により解任。三浦哲郎が引き継ぎ、セカンドステージは6位で終了した。

 

 翌02年シーズン、スベロニア人のズデンコ・ベルデニックが監督に就任。ファーストステージこそ3位と健闘したが、セカンドステージは13位に落ち込んでいる。

 

 2003年のファーストステージで7位に終わると、監督がブラジル人のネルシーニョ・バチスタに交代。ヴェルディ川崎で結果を残していたネルシーニョの下でも、成績は上向かず、セカンドステージ8位と中位に留まった。

 

 稲川はアーセン・ベンゲルの幻影を振り切ることができていなかったと振り返る。

「ベンゲルのときの成功体験を引きずっていた。あのときになぜ勝てたのかというのをクラブとして検証できていなかった」

 

 クラブの強化には、中長期的な視座を持った上での短期的な“対処療法”が必須である。

 

 当時の名古屋に前者が存在したかどうかは置いておき、チームを率いるネルシーニョは、当然のように後者を要求した。

 

 秋田豊獲得の意図

 

「ネルシーニョと強化部のミーティングの中で、“柱となるセンターバックが欲しいね”っていう話が出た。それで秋田を獲りに行った」

 

 元日本代表の秋田豊である。

 

 70年生まれの秋田は愛知高校から愛知学院大学に進み、93年に鹿島アントラーズに入った。ジーコの薫陶を受けた選手の一人で、日本代表として98年、02年のワールドカップメンバーにも選出された、ヘディングを得意とする屈強なディフェンダーである。

 

 稲川と同じ愛知高校出身である秋田とは以前から面識があった。秋田は03年シーズン終了後に鹿島から戦力外通告を受けていた、彼も故郷に戻ってきたいという思いを抱いており、交渉はすんなりとまとまった。

 

 04年シーズン、前年度得点王のウェズレイとマルケスという強力なツートップ、移籍で秋田の他、日本代表経験のある岩本輝雄、U-23日本代表の角田誠などが加わり、上位に食い込める選手が揃ったはずだった。

 

 しかし、ファーストステージ8位。セカンドステージは5位まで順位を上げたが、選手層を考えれば物足りない成績だった。

 

 稲川は秋田の空回りする姿をよく覚えている。

「(秋田は)アントラーズで培ってきた勝者のメンタリティを伝えたいという思いがあったんでしょう。でも(チームの中で)浮いちゃった。思い切り浮いた」

 

 藤田俊哉の苛立ち

 

 翌05年シーズン途中の6月、ジュビロ磐田から藤田俊哉が加わっている。

 

 藤田は71年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で生まれている。清水商業から筑波大学を経てジュビロ磐田に加入。名波浩、中山雅史らと磐田の黄金時代を作った。03年にはオランダのFCユトレヒトに半年間の期限付き移籍。04年に磐田に復帰したが、監督交代により出場機会を減らしていた。

 

「強化(部)の方針が“秋田に加えて経験ある選手が欲しい”ということでした。どの選手にしようかということで(藤田)俊哉の名前が出た。そこで、ようやく秋田の考えを理解できるというか、共鳴できる選手がやってきた」

 

 藤田が加入した直後の練習試合のことだ。

 

 ハーフタイムでベンチに戻ってきた藤田が明らかに苛立っていた。藤田は稲川の顔を見ると、こう言った。

 

「稲川さん、俺のキャラとは違うっていうのは分かるけど、男って根性だよね」

 

 穏やかで冷静な藤田がそう口にするほど、ピッチの中で闘争心が欠けていたのだ。

「足りないポジションを次々と補強して、切り貼りしたような感じになっていた。チームとして勝ちにこだわるという土壌作りの時期でしたね」

 

 土壌作り――というのは的確な表現だろう。

 

 このときの名古屋の若手には、豊田陽平、川島永嗣、高校を卒業したばかりの本田圭佑がいた。彼らがめきめきと芽を吹くのは少し後になる。

 

 05年シーズンも名古屋の成績ははかばかしくなかった。その責任は自分にも負わされるはずだ。名古屋とのコンサルティング契約は今季までだと稲川は観念していた。

 

 切れのある動きを見せた李忠成

 

 前期戦終了後、名古屋は鹿児島でキャンプを張っている。

 

 8月5日、名古屋は国分市(現・霧島市)で柏レイソルと練習試合を行った。藤田の調子を視察するため、稲川は練習場に足を運んでいる。

 

 前半36分のことだった。

 

 柏のスリートップの左に入っていた若い選手がドリブルでボールを持ち込んだ。相対するのは、名古屋のディフェンダー、古賀正紘だった。東福岡高校出身の古賀は早くから将来を嘱望された選手で、各年代の日本代表に選出されていた。

 

 すると――

 

 その若いフォワードは鋭い動きで、古賀を振り切ると、絶妙なクロスボールを上げた。そしてブラジル人のレイナウドは楽々とゴールを決めた。

 

 こんな選手がいるんだと、稲川は目を丸くした。

 

 この年にFC東京から柏レイソルに移籍していた李忠成である。

 

 名古屋には在日本朝鮮人蹴球団でプレー、朝鮮大学でサッカー部の監督を務めていた金益祚がいた。在日の世界に人脈があり、目利きの才のある彼を稲川はスカウトとして名古屋に迎え入れていた。

 

 金にこの選手を知っているかと訊ねると、知り合いの息子であると事も無げに答えた。李の父親・鉄泰は横浜フリューゲルスの前身、トライスタークラブでプレー経験のあるディフェンダーであるという。

 

 キャンプ終了後、稲川は李、そして父親の鉄泰と会い、代理人契約を結んだ。

 

 李は85年12月、東京都で生まれた。在日四世にあたる。横川FCジュニアユースからFC東京の下部組織に入り、2004年にトップチームに昇格していた。その存在は一部で知られていたが、まだ無名の選手の部類に入った。

 

 後に、彼は細身ではあるが、逞しい悍馬――暴れ馬のような選手であることを稲川は知る。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)など。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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