第207回 バイアでの出会い ~稲川朝弘Vol.16~
2000年当時、サンパウロとリオ・デ・ジャネイロの2都市と、それ以外の地方の間にはとてつもない“情報格差”があった。
日本のJリーグはもちろん、欧州のクラブのスカウトもこの2つの州リーグ、あるいは南部のパラナ、あるいはリオ・グランジ・ド・スール州にあるブラジルの“ビッグクラブ”の動向には目を光らせていたものの、ブラジルは広く、それ以外は手薄だった。
しかし、ブラジルでは、それ以外の州にも、ちょっとしたチャンスを掴みきることができなかった才能が眠っているものだ。
稲川朝弘が名古屋グランパスのために目をつけたバイア州の首都、サルバドールのバイア所属のブラジル人選手は、サッカー専門誌『プラカール』の1999年5月号で取材を受けている。
『プラカール』誌は99年から「シュテイラ・ジ・オウロ」(ゴールデン・ブーツ)という賞を始めていた。この選手は全国的には無名ながら、ロマーリオなどの著名選手の中に割って入っていたのだ。
<――あなたの平均ゴール数は昨年から急増している。4月15日時点で、15得点でシュテイラ・ジ・オウロでは30ポイント。急に得点が増えた秘密を教えて欲しい。
ピッチの中の動きが良くなったこと、ペナルティキックとロングシュートの精度が上がったことかな。それで99年のバイア州選手権では17ゴールで得点王になったんだ。
(中略)
――あなたはサンパウロ、フラメンゴ、クルゼイロ、インテルナシオナル(リオ・グランジ・ド・スール州)といったクラブと契約していた時期もある。なぜそうしたクラブで成功しなかったのだろう?
どのクラブにもちょっとしかいなかったし、自分のサッカーを見せるいい機会が貰えなかった。試合でいい結果を残したのに、次の試合で使って貰えなかったなんてこともあった。どの選手でも自分の力を見せるには一定の期間が必要だ。それはぼくには与えられなかったということだよ。
――君の将来の計画の中には、サンパウロやリオ州のクラブに戻ることも含まれているの?
もちろん。新しいチャンスを貰えれば、今度は失敗しない。ぼくはどんなビッグクラブでもやっていける自信があるよ>
「モノが違う」ある選手とは
バイアで虎視眈々と飛躍の時をうかがっていたこの選手の名前をウェズレイという。
ウェズレイは72年4月にバイア州の州都、サルバドールで生まれた。93年に地元のバイアとプロ契約、95年にグアラニに移籍した後、フラメンゴ、クルゼイロ、サンパウロなどのクラブを転々としている。しかし、前述のインタビューで彼が語っているようにどこでも居場所を見つけることができず、古巣のバイアに戻っていた。そこで彼の才能が花開いたのだ。
ウェズレイは翌2000年シーズンも得点を量産し続けていた。『プラカール』誌は2000年7月号の「シュテイラ・ジ・オウロ」の途中経過をこう報じている。
<シュテイラ・ジ・オウロではロマーリオとロナウジーニョ・ガウショの2人が抜け出していた。この2人の得点が奪えない間に、バイアのウェズレイが猛追している。彼のタイトル獲得にあたって唯一の問題は、後期からアトレチコ・マドリーに移籍する可能性が高いことだ>
1位はバスコ・ダ・ガマのロマーリオ、2位がグレミオのロナウジーニョ、同率3位にコリンチャンスのルイゾン、サンパウロFCのフランサ(後に柏レイソルに移籍)という錚々たる面々の後にウェズレイが続いている。
稲川は初めてウェズレイのプレーを見たときの感想をこう語る。
「サッカー選手の中に1人、ラグビー選手が混じっているような感じ。周りをなぎ倒して行く感じ。とにかく断トツだった。モノが違っていた」
稲川もアトレチコ・マドリーがウェズレイに接触していることは掴んでいた。まずは彼と話をすることだった。
ところが――。
「丁度、休みに入ってしまい、島に行っちゃって帰って来ない。3日間ぐらいぼーっと待ってましたね」
サルバドールに戻ってきたウェズレイを捕まえて、日本へ行く気はないかと訊ねた。
「当時、ブラジル人にとって日本のJリーグはいい印象があった。アトレチコよりもいい条件を出しました」
Jで最も成功した外国人
今ならばJリーグのクラブがアトレチコ・マドリーと競るなんてことは考えられないんですけれどね、と稲川は付け加えた。
「それで即決です」
シーズン途中から名古屋グランパスに加入したウェズレイは、リーグ戦9試合出場で7得点。チームもセカンドステージ7位と順位を上げた。
翌2001年、ウェズレイは、28試合で21得点、得点ランキングで2位。その後も得点を積み重ね、Jリーグで最も成功した外国人選手となる。
稲川はウェズレイの獲得で、ブラジルのバイア州など北東部にはまだ能力のある選手が眠っていることを学んだ。そして、この地方との繋がりは後に稲川の大きな力となる。
この頃、ようやく稲川が代理人としてやっていけるという手応えを得たという。
「ようやく仕事らしくなったというか。(仕事が)点から面になったというか。ただ、名古屋とのコンサルティング契約でクラブ全体の数字の見直しなど、クローズなところまで関わることになって、他のクラブと余り付き合わないで欲しいと言われた。このときは広島とちょっとお付き合いしていたぐらいですかね」
翌2002年は、日本と韓国でワールドカップが開催されている。日本全土がサッカーの熱にうなされていた。その中で日本代表はグループリーグを突破し、決勝トーナメントに進出している。
しかし――。
「昔からなんですけど、代表だから応援するとか見たいというのはあんまりない。ワールドカップってぼくにとってはお祭り。仕事に直結しないし」
あのときは日本開催の試合のチケットは手に入らないし、韓国に滞在していました。日本代表の試合はテレビで見ていましたよ、と笑った。
稲川の仕事がワールドカップとある程度直結する、つまり日本代表選手の代理人となるのは、もう少し後の話だ。
(つづく)
■田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)など。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com