30年続いた平成は、スポーツの現場においては女子マラソンが躍進をとげた時代だった。

 

 

 それを牽引したのが、この3月限りで第一線から退いた小出義雄である。

 

 門下生にはそうそうたる顔ぶれが並ぶ。92年(平成4年)バルセロナ五輪銀、96年(同8年)アトランタ五輪銅の有森裕子、97年(同9年)アテネ世界選手権金の鈴木博美、00年(同12年)シドニー五輪金の高橋尚子、03年(同15年)パリ世界選手権銅の千葉真子……。

 

 さすがに近年は「パワハラ」呼ばわりされるのを恐れて、人前で選手に手をかけたり、怒鳴り散らす指導者は少なくなったが、昔は“愛のムチ”が当たり前だった。もちろん陸上も例外ではなかった。

 

 こんな出来事があった。頬が赤く腫れている女子選手がいたので「大丈夫か?」と声をかけるとその選手は「叩かれるのは期待されている証拠。叩かれなくなったら私は終わりです」と答えたのだ。

 

 それを聞いた私は二の句が告げられなかった。

 

 そんな時代にあって、小出は選手に厳しい練習は課しても、感情に任せて怒るようなことは決してしなかった。当時としては珍しい“褒め上手”な指導者だった。

 

 オリンピックで2つのメダルを胸に飾った有森も、実業団入りした当初は、小出に言わせれば「ハシにもボウにもかからないような中距離選手」に過ぎなかった。

 

 当時、長距離でオリンピックを目指す選手は高校から実業団入りするのが、いわゆるエリートコースだった。

 

 有森は日体大を経て小出が監督をしていたリクルートランニングクラブの門を叩き、入部を願い出た。

 

 大学時代の実績に見るべきものはなかった。

「アリモリと申します」

「ウン、アオモリか?」

「いえ、アリモリです」

 

 実際に走らせてみると、バネがない上に腰高ときている。

「こんなの獲らなきゃよかったよ」

 

 だが、獲った以上、指導者には育てる義務がある。走力に問題はあっても、練習だけは一切、手を抜かない。

 

 そんなある日、小出はこんな言葉で有森に自信を与えた。

「おまえは大したもんだなァ。常に全力で練習している。おまえは心で走っているよ。心が素晴らしい。だから、強くなれるぞ」

 

 ブタもおだてりゃ木に登る、という慣用句がある。上品な物言いではないが、それを実践したのが小出だった。常に時代の先を行く指導者だった。

 

<この原稿は『漫画ゴラク』2019年5月3日号に掲載された原稿を一部再構成したものです>

 


◎バックナンバーはこちらから