コンディションづくりに加え練習法にも問題があったのか。

「要するに自己流の練習をやっていたということだよ」

 

<この原稿は『月刊現代』(講談社)2008年5月号に掲載されたものです>

 

 小出はさらに声のトーンを上げ、続けた。

「ひとりだとね、最後の調整も、足が痛くなったら不安だから、軽くやっちゃうんです。そうすると間違いなく筋力が落ちる。それが心配でやり過ぎると、今度は足が重くなってしまう。ひとりだとそういう加減がわからなくなってしまうんじゃないかな。

 

 名古屋でのQちゃんの走りには躍動感がなかった。筋肉の張りというかバネがないから、ああいうペタペタした走りになるんだ。僕がコーチだったらアップダウンのあるゴルフ場とかにつれていって、目一杯、3時間走とか4時間走をやらせるよ。上りで脚の後ろの筋肉を鍛え、下りで脚の前の筋肉を鍛える。こうやってマラソンを走る脚ができ上がるんだ。

 

 ところが厳しくチェックする人がいないと、どうしても楽な方、楽な方にいっちゃうよね。インターバル(高負荷と低負荷を交互にくり返すトレーニング)なんてきついから、なかなか自分からはやろうと思わないだろうし。齢をとると皆インターバルを避けるようになるのは、体がきついからなんだよ。

 

 よく学者先生が“年齢を重ねたら体力は落ちるから、少し練習量を落としなさい”と言うけど、齢をとればとるほど練習量を増やさなきゃ若い者には勝てないよ。

 

 Qちゃんは僕とやっていた頃の10年間の練習スケジュールを持っている。でも身体は年齢とともに変化しているから、昔のスケジュールでやってもダメなんです。だって20歳と25歳と35歳では脚も違う。酸素摂取量も違うよ。練習量で補うしかないんだ。

 

 要はやり方次第なんです。徐々にやれば、筋肉は回復できる。そのかわり、食べる物や飲む物を大事にしなくちゃいけないね」

 

 昨年8月に右ひざ半月板を半分も切除する手術を受けたことは小出も知らなかった。インターバル・トレーニングを積極的にこなすべきだったとの指摘はわからないでもない。だが、手術を終えたばかりの脚に過度の負担をかけることは危険ではないのか。

 

 それに対する小出の見解はこうだ。

「手術後、まがりなりにも70キロを走っているんだ。脚が痛かったら70キロは無理だよ。それに70キロ走ったといっても平坦なコースなんだから。

 

 高地で距離を踏めば肺は鍛えられる。平地に下りれば呼吸が楽に感じられるからね。だからQちゃんは完走できた。しかしフラットなコースでは肺は鍛えられても脚は鍛えられない。そこが落とし穴かな」

 

 理想の師弟愛だったが……

 

 8年前、2人は一心同体だった。心地良い風が吹く名古屋の表彰台。優勝者に贈られる月桂冠をそっとはずした高橋は、「はい、監督」と言って自分よりも背の低い師匠の頭にかぶせようとした。

 

「幸せだねぇ、オレは……」

 ヒゲ面の60歳(当時)はしみじみとつぶやいた。

 

「いや、監督がいつも太陽のように明るく振る舞ってくれたおかげです。監督、本当にありがとうございました」

 

 それを受けて、私はこんな記事をこの欄で書いた。

 

<教育現場は“学級崩壊”に直面しているというのに、まるでここだけタイムスリップして明治時代の女学校の卒業式に迷いこんでしまったような錯覚にとらわれてしまったものだ。日本人が理想とする清楚で凛とした師弟愛の姿がそこにあった>

 

 師弟愛のハイライトシーンは、この半年後のシドニー五輪だった。

 

 スタジアムへのトンネルをくぐると、そこには青空が広がっていた。春というより、初夏を思わせる南半球の強い陽射しが、細身の日本人ランナーの凱旋を待っていた。

 

 競技場に入り、青い目のランナーの猛追に遭いはしたものの、背後を脅かされるというほどのものではなかった。ゴールの瞬間、高橋尚子は両手を高々と突き上げ、9万人近い観客のスタンディング・オベーションにこたえた。

 

 両腕に日の丸と抱え切れないほどのブーケを抱え、師の姿を捜した。

 

「おーい高橋。よくやったぁ」

 スタンドの通路で小出が叫んだ。叫び声は大歓声にかき消され、高橋の耳には届かない。

 

「一番最初に監督の顔が見たかった」

 乙女のように、頬を赤く染めて彼女は言った。

 

「今会えてよかったです。無事にゴールにたどりつけました。ありがとうございました」

 次の瞬間、師弟は熱い抱擁をかわした。

 

「この今のときに生きていて監督にお会いできて本当によかった」

 

(後編につづく)


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