小出監督とQちゃんの師弟愛<後編>
勝負を決めたのは緩やかな上り坂の前の35キロ地点だった。ポーンとサングラスを放り投げた高橋は、それを狼煙がわりに最大のライバル、リディア・シモン(ルーマニア)を切り捨てにかかった。
<この原稿は『月刊現代』(講談社)2008年5月号に掲載されたものです>
放り投げたサングラスは先導するバイクに当たり、コツンと音を立てて転がった。これを拾ったのが父親だった。スパートの計画は綿密に練られていたのだ。
レース後、小出はこんな秘策を私に明かした。
「僕たちね、32キロのところに宿舎をとってたの。ここで毎日、朝夕2回、(アップダウンが続く)32キロから37キロ地点の5キロをスパートする練習をしたんだ。『ここが勝負だよ、ここが勝負だよ』と言いながらね」
トレーニング法からレースプランまで全てを小出が練り、高橋はそれを忠実に実行した。二人は金メダル獲得という共通の目標を持つ同志だった。
自らの指導法の正しさを立証するために小出は高橋を必要とした。一方の高橋は自らの夢を実現するために小出を必要とした。
日本陸上史上初の五輪金メダルは、マラソンに全てを捧げた二人の同志による路上の革命劇でもあった。
しかし、どんな素晴らしい出会いにも別れはある。それは唐突にやってきた。
「小出監督の下を卒業し、独自で競技の道を歩むことに決めました」
05年5月のことだ。独立記者会見の席上、黒いスーツに身を包んだ高橋はきっぱりと言い切った。
ステージを降りる際、小出は高橋にチラリと目をやったが、彼女の方から視線を合わせることはなかった。
別離の理由をめぐってはいろいろと取り沙汰された。練習方法のくい違いから、選出されなかったアテネ五輪の選考レースの選び方、小出が主宰する佐倉アスリート倶楽部の肥大化、彼女に絶大な影響力を持つ第三者の出現、果てはギャランティの問題まで。真相は何だったのか?
「表向きは“小出を独り占めできない”となっているけどね。人間10年も一緒にやっていると新鮮味がなくなるんだよ。Qちゃんは自分ひとりでもできると思ったかもしれないけれど。僕はQちゃんに“もう一度優勝しよう”と言ったんだけどQちゃんは“待てない”ってさ。そうか、だったら頑張ってこいと。(まわりが言うような)ケンカなんて全然してないですよ」
03年11月、アテネ五輪代表選考を兼ねた東京国際女子マラソンに出場した高橋はエルフィネッシュ・アレム(エチオピア)に敗れ、2位となった。タイムは2時間27分21秒。代表の座は残り2席で大阪国際、名古屋国際が後に控えていた。
もし代表の座を確実にしたいのなら、次の大阪は無理でも名古屋にエントリーして雌雄を決する手があった。しかし小出は「名古屋を走ったらアテネの金は無理」と言って、吉報を待つ姿勢を崩さなかった。結果的に、この決断は裏目に出た。
「あれは作戦。あの時、ある陸連の幹部がQちゃんに言ったんだ。“出ない方がいい”って。選手にはそれぞれタイプがある。僕が教えた中でも有森裕子は連戦がきかない。だがQちゃんは連戦がきく。だから僕はQちゃんに言ったの。“名古屋を走らないか?”って。ところがQちゃんは陸連の幹部から“大丈夫だ”とのおスミ付きを得ているので走らなくていい、と言うんだ。
さらに僕は突っ込んで聞いたよ。“もし五輪に出られなくてもいいのか?”って。するとQちゃんは言ったね。“自分の責任だから仕方がない”って。
そこまで言われれば、もう僕はどうすることもできない。Qちゃんが嫌だと言っているのに、僕が無理やり出させるわけにはいかないでしょう。だから苦肉の策として“名古屋を走ったらアテネに間に合わない”と言ったの。それが真相だよ」
スポーツに“たら、れば”は禁句だが、もし高橋がこの時、名古屋を走っていたら、五輪のマラソン史は塗り替えられていたかもしれない。
こうして再生させる
レース後の記者会見で高橋は「引退の声もありますが、まだまだやりたいことがある。もう少し走らせてください」と明確に引退を否定した。
しかし4年後のロンドン五輪挑戦に質問が及ぶと「4年後のことは考えられない」と率直に言った。あとで「(ロンドン五輪への挑戦は)あるかもしれないし、ないかもしれない」と言葉を濁したが、かりにロンドンを走るとなれば、彼女は40歳だ。現実を直視すれば彼女の五輪挑戦は今回の名古屋で事実上、幕が引かれたと言える。
だがベストコンディションでもう一度42.195キロを走ってみたい、との思いは今も彼女の胸中にくすぶっている。
「あなたにとってマラソンとは?」との質問に高橋は「命をかけてやるもの」と答えた。記者会見でのスマイルは落日のヒロインの精一杯の意地だったのではないか。
いずれにしても彼女に残された時間は限られている。再生させるためには、どんなトレーニングが必要なのか。
小出はある夕刊紙で「オレなら4カ月で再生できる」と豪語していた。
「本当に自信あるよ。ただ4カ月というのは間違いで7カ月だな。もし今のQちゃんを勝たせるなら、どうするか。まずQちゃんにはゾウリくらいのステーキを食わせるね。それに日本の良いサカナと野菜。食生活から変えていく。
続いて基礎的なトレーニング。2カ月間、山を1日8時間くらいかけて歩かせる。走るんじゃなくて歩く。これによって“マラソンの脚”ができていく。走らせるのはそれからでいいんだよ」
諦めちゃいけない!
「中国まで行かなくても日光とか箱根で十分。上りはガンガン走らせて、下りはゆっくりと行かせる。これによって脚の表と裏の筋肉がつく。上半身の筋力が落ちているのも気になる。走り込みによって大胸筋も発達する。今回はそれができなかったのかな。
でもそれよりも大切なのは、Qちゃんに対してきちんとモノを言える人の存在だね。チームはよく頑張っていると思うけど、マラソンは簡単じゃないよ。冷静に判断して、心を鬼にして、時には厳しいことを言うコーチが必要だと思う。僕だったら、まぁ次の世界選手権には間に合わせる自信があるけどね。
記者会見で“かなえたい夢がある”と言ったらしいけど、走る夢ならいいけど、違う夢を見ているんだったらもう走れないよ。僕はまだ彼女に走ってもらいたいな。こんなことくらいで諦める子じゃないから、彼女は。走ることが好きで好きでたまらないの。記者会見でも、まだ本音は口にしていないね。本当は相当、悔しかったはずだよ。諦めちゃいけないんだ、やれるんだから。Qちゃんにはそう伝えたいね」
推理作家のエラリー・クイーン風に言えば、名古屋の失速は「Qの悲劇」である。恩師の伝言は、彼女のイエスマンではないプロコーチをつけること。エピローグの書き換えは今ならまだ間に合うかもしれない。
(おわり)