「蹴球」と書くぐらいだから、もちろん、サッカーはボールを蹴るスポーツである。だが、英語でもスペイン語でもドイツ語でも、そして中国語でも、サッカーは「足プラス球」で表現されている。「蹴る」というサッカーにおける一部分でしかない行為を競技名にした日本は、相当な少数派なのだ。

 

 だからなのか、昔も今も、日本のサッカー選手、指導者、関係者は蹴るという行為ほどには、止めるという行為を重視していないのでは、と感じるときがある。「一蹴入魂」という横断幕はよくみかけるが、未だかつて「一止入魂」や「一置入魂」といった垂れ幕にはお目にかかったことがない。蹴るのと同じぐらい、いや、場合によってはそれ以上に、どうやって止めるか、どこにボールを置くかということは大問題なはずなのに。

 

 A代表がトリニダード・トバゴと戦う半日前、U-20の日本代表は韓国に0-1で敗れた。正直、この年代での勝敗に一喜一憂する気などさらさらないが、ただ、日本の選手たちのボールの止め方、置き方があまりにも無頓着なのは引っかかった。

 

 本来、体格で相手を凌駕する可能性が高くない日本人にとって、相手にボールを奪われないように止め、保持するのは欧米以上に大切なはず。かつて、中田英寿が異常なほどにこだわっていたのもこの点だった。ところが、ポーランドで戦っていた若い日本人選手のほとんどは、悲しくなるぐらい雑にトラップをし、呆れるほど無防備にボールをさらしていた。

 

 それだけに、スコアレスだろうがなんだろうが、わたしはA代表の試合に救われた気分になった。大迫勇がそうだった。中島もそうだった。U-20にはほとんどいなかった、止めること、置くことに腐心している選手が、少なからず存在していた。彼らも、サッカーを「ボールを蹴る競技」と考える人が多数派な土壌で育ったはずだが、蹴る以外の行為にも細心の注意を払っている。それが見られただけで、きょうはもう十分だった。

 

 もちろん、ファンは日本が勝つところを見たかっただろうし、それは現場の選手や監督も同じだろう。ただ、この日の試合に関していえば、勝敗にこだわりつつ、同じぐらい実験室としての意味合いも強かった。慣れないフォーメーションは明らかに選手たちから積極性を奪っていたし、もし是が非でも勝利が必要だったのであれば、南野の投入は中島との入れ替えではなく、ジョイントさせる形で行われたはずだ。

 

 この試合を南米選手権への試運転と見るならば、チーム全体から止めること、置くことに対する意識の高まりが感じられたのは大きな収穫である。最終ラインからのボールのつなぎも、ずいぶんと滑らかになってきた。新しい組み合わせ、新しいやり方に挑戦していたことを考えれば、十分に及第点はつけられる。

 

 ただ、日曜日のエルサルバドル戦もノーゴールでは困る。攻撃に時間をかけた割に、最終的にはサイドからのクロスが多かったことや、そのクロスが相手にとって脅威ではなかったこと……そんな不満を吹き飛ばす、胸のすくような攻撃サッカーを期待したい。

 

<この原稿は19年6月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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