アテネ五輪の日本代表監督だった山本昌邦さんによると、サッカーは「技術(10点)×戦術(10点)×体力(10点)」によって構成されているのだとか。なるほど、得心のいく説明である。と同時に、同じことは個人についても当てはまるのでは、という気がしてきている。

 

 きっかけは先月、雑誌の取材で中田英寿の少年、青年期を知る人たちを訪ねたことだった。ほぼ全員が「才能は大したことがなかった」と前置きしたあとで、「でも」と印象的なエピソードを口にしたのである。

 

 まだ代表に選ばれてもいないのに、アジアユースに備えて、真夏でもウインドブレーカーを着て練習していたこと。

 

 練習終了後、付き合わされた後輩が音を上げるほど、単調なキックの自主練を延々と繰り返したこと。

 

 それが終わると、今度は社会人チームの練習に飛び入りで参加していたこと。

 

「俺は財前にはなれない。でも負けたくない」と言い切り、自分の武器としてキックと体の強さに磨きをかけたこと。

 

 ユース時代に山本昌邦さんから言われた「これからのサッカーはパスの強さが重要だ」という言葉を信じ、キラーパスと揶揄されることがあってもそのスタイルを最後まで貫いたこと――。

 

 聞いているうちに、こう思うようになった。サッカー選手は「才能(10点)×努力(10点)×発想(10点)」によって成り立っているのではないか、と。

 

 純粋に才能だけを比較するのであれば、中田英寿よりも大きなものを持った選手はいくらでもいた。中田を5とするならば、10をつけてもいいと思う選手までいた。

 

 だが、誰の目にも明らかなほど天賦の才に恵まれた少年の多くは、その豊かな才能ゆえに、才能だけで勝負しようとしてしまった。中田英寿が「才能5×努力10×発想10」で合計500になったサッカー選手だとしたら、「10×1×1」の、たったの合計10で終わってしまった選手は珍しくない。

 

 思えば、マラドーナは10、あるいはそれ以上の才能に恵まれた選手だが、そのプレースタイルや体形、顔つきや言動もどんどん変わっていった。結果としてマイナスとなる点があったのは事実にせよ、あれほどの才能の持ち主でさえ、進化の努力は怠らなかった。

 

 才能は重要な要素だが、サッカー選手のすべてではない。努力と発想次第で、可能性はいくらでも広がる。

 

 だが、サッカー選手に才能など必要ない、というわけではもちろんない。

 

 もし、豊かな才能に恵まれた少年が、努力と発想の掛け算を怠らなかったら? 若いうちから、いまの自分に欠けているものを見据え、克服し、獲得しようとする努力を続けたら?

 

 いままでの日本にそんな選手はいなかった。天才も、大人になったらただの人。それが日本に生まれ落ちた才能の宿命だった。

 

 彼は、明らかに去年とは違う。得点能力は、数カ月前に比べても上がっている。こんな選手を日本で見た経験がわたしにはない。

 

 それが久保建英である。彼はひょっとしたら……。いや、いまはまだやめておこう。

 

<この原稿は19年6月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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