皆さん、はじめまして。今月から私、鈴木康友の連載がスタートします。よろしくお願いします。

 

 すでに新聞の記事やTV番組などでご存知の方もいらっしゃるでしょうが、私は昨年6月まで「骨髄異形成症候群」の治療のために入院していました。この病気は前白血病状態と呼ばれる血液の難病です。血液を作る細胞を復活させるために臍帯血移植手術による治療を選択しましたが、医師からは「成功しても治る確率は4~5割くらいです」と言われました。詳細は以前、白球徒然 ~HAKUJUベースボールスペース~で記事になっているので、そちらを読んでみてください(18年12月24日更新記事)。

 

 家族のためにも「絶対に治る!」と強い気持ちで頑張ってきましたが、ときには弱気になることもありました。でも、現代医学を信じて強い気持ちで闘病生活を過ごし、昨秋には仕事の再開が許可されました。今年2月には春季キャンプの取材にも行きましたよ。巨人の宮崎キャンプでは原辰徳監督が私を見るなり、「ヤストモ、生きてたかぁ!」と。なんだか原さんは長嶋茂雄さんに言うことが似てきたなあ、なんて思ったものです。

 

 ともあれ、77年秋のドラフト会議で指名を受け、巨人に入ってから約40年。選手、コーチとしてずっと野球に関わってきました。病気から復活して何をやるか、となったとき、やはり私には野球しかありません。恩返しなんていうと堅苦しくなりますが、野球の面白さをお伝えできればと思っています。

 

 阪神・原口の復活に涙

 さて、約1カ月続いたセ・パ交流戦は今年も多くのドラマを見せてくれました。まず触れたいのは阪神・原口文仁のことです。

 

 彼は今年1月、大腸がんの手術を受け、懸命のリハビリの末、1軍の舞台に戻ってきました。4日の千葉ロッテ戦(zozoマリン)、代打で出場してタイムリーツーベース。さらに9日、甲子園の北海道日本ハム戦、九回2死二、三塁でサヨナラヒットを放ちました。

 

 私もこのシーンを見ていて思わず涙が出ました。がんを乗り越えてグラウンドに戻ってきたこともすごいし、治療の詳細はわかりませんが、きっと転移を防ぐために今も投薬治療などは続けているでしょう。薬の影響で体がしんどいところもあるはずです。それでもグラウンドに立ち、野球をしている姿は、多くのがんの患者さん、がん以外にも闘病中の方に勇気を与えたことでしょう。私も彼の姿を見て「もっともっと元気になってやろう」と気持ちを新たにしたものです。あと原口はお立ち台で泣いてなかったのもいい。その辺りにも彼の強さを感じました。

 

 広島の赤松真人も胃がんの手術から復活を目指し、現在リハビリ中です。赤松は打って良し、走って良し、守って良しの3拍子揃ったプレーヤーです。すべてを以前のレベルに戻すことを考えると復帰のハードルは高いと思いますが、彼の姿も是非、グラウンドで見てみたいですね。今度、機会があったら原口や赤松の話を聞いてみたいと思っています。

 

 交流戦は毎年、「パ高セ低」などと言われています。今年もパ・リーグの58勝45敗1分(24日時点、雨天中止未消化1試合)でした。毎年、この時期はセ・リーグの貯金がパ・リーグに流れていき、セ・リーグのAクラスに貯金がないというシーズンもありましたね。今年はそんなに大差ゲームはなく、例年より差は感じませんでしたが、根本はセとパの野球の違いが交流戦の勝敗に現れていると思います。特に下位打線の野球に違いがあります。

 

 セ・リーグでは6番が先頭打者として出塁しても送りバントはまずありません。下位は9番ピッチャーも含めて攻撃力が弱く、送っても後続が期待できない。結果、マウンドの投手はちょっと休める場面です。一方、DH制を採用するパ・リーグでは下位打線といえども油断はできません。6番が出塁して7番が送って、8番、9番がつないで上位へ回す。気がつくと下位打線から始まったのにビッグイニングということも多々あります。

 

 それを象徴するのが95年のパ・リーグの打点王です。このシーズン、オリックスのイチローが初芝清(千葉ロッテ)、田中幸雄(日本ハム)とタイで打点王に輝きました。周知のようにイチローの打順は1番です。そのイチローが打点王を獲得するんですから、いかに下位打線からチャンスを作っていたか、ということです。

 

 交流戦明け、オリに注目

 今年の交流戦ではオリックスに成長の気配がありました。甲子園の阪神との関西ダービー、東京ドームでの巨人戦、そしてマツダの広島戦と良い戦いを見せ、交流戦2位と奮闘しました。特に19日の巨人戦、序盤の2回に2死一、三塁からダブルスチールで1点を奪ったシーンが印象的です。

 

 2回1死から中川圭太、大城滉二が連打で出塁。小田裕也が倒れて2死一、三塁。ここで右打者の若月健矢が打席に入りました。キャッチャーから三塁走者が死角になり、何かを仕掛けるにはもってこいの場面です。1ボール1ストライクで大城が二塁に向けてスタート、キャッチャーの炭谷銀仁朗はそのまま二塁へ送球し、中川が三塁から生還しました。

 

 このダブルスチールは今季、巨人がすでに2回決めているプレーです。相手の得意の攻撃パターンを使って先制点を奪うとは、西村徳文監督もなかなか味なことをやるものです。あと、ダブルスチールでは「キャッチャーがどこに放るのか」がキーになります。二塁に投げるのか、ピッチャーがカットするのか、など。でも、このときはゲーム序盤ですから「ピッチャーがカット」という窮屈な野球はまずやりません。オリックスはその隙を突いた形で、ゲーム序盤だからこそ成功したプレーです。結果、試合は4対3でオリックス。この1点が最後まで効きました。

 

 西村監督はこうやって若手選手たちに「1点の取り方」を叩き込んでいるんでしょう。オリックスは山本由伸、榊原翼、山岡泰輔、田嶋大樹、K-鈴木ら若手投手にイキの良いのが揃っています。ただ野手陣の援護がなくて勝ち星に恵まれない。野手が点の取り方を覚えて、さらにピッチャーがより成長すれば今の広島みたいな強いチームになりますよ。西村監督は同級生なので、先日、ドームでもいろいろと話をしました。「来年、再来年には強いチームになっているな」と言うと、「監督は1年1年が勝負。オレがそのとき監督やってるかどうかわからんだろ」と笑っていましたが、交流戦明けのオリックスには注目です。

 

 どんな下位チームでも年に1度は大きな連勝する波があるものです。その連勝が止まった後、いかに確実に勝っていけるかがチーム浮上の鍵になります。オリックスは首位まで7.5ゲーム、クライマックスシリーズ圏内のAクラスまで4.5ゲーム差。まだまだ6月、ペナントレースはもう一波乱、二波乱ありそうです。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~13年は東北楽天、14年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。

 

(今月から佐野慈紀さんの「ピカイチ球論」は終了し、鈴木康友さんの「プロ野球セオリー&メモリー」がスタートします)


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