人との関係は、それぞれの特性もあれど、いつ出会ったかも重要になってくる。その意味で代理人の稲川朝弘にとって、李忠成は特別な選手の1人だ。

 

 柏レイソルで埋もれていた、いわば“3軍”のときに目をつけたということ、そして彼が一足飛びに階段を上っていく姿を見続けた選手であるからだ。そして稲川が李に伴走することで得た経験は少なくない。

 

 2007年2月、日本国籍を取得するとすぐに李は22歳以下日本代表に召集されている。翌夏に行われる北京オリンピックのために結成されたチームだった。

 

 2月18日に熊本で行われていた合宿に合流、21日のアメリカ代表戦に先発起用されている。22歳以下日本代表を率いていた反町康治は李の得点能力を評価していた。そして2月末から始まったアジア予選にも出場することになった。

 

 人生の歯車がこれまでと違った速度で回り始めることがある。2007年は李にとってそんな年だった。

 

 この年から彼の所属する柏レイソルがJ1に復帰。開幕戦こそ先発から外れたが、その後は試合機会を増やし、シーズンが終わってみると10得点とチーム最多スコアを記録した。11月、北京オリンピックアジア最終予選を勝ち抜き、日本代表は出場権を手に入れた。

 

 海外指向が強かった李にとって、オリンピックは欧州のクラブに対して自分の力を見せつける格好の舞台になるはずだった。

 

 北京オリンピックで日本代表はアメリカ、ナイジェリア、そしてオランダと同組に入っている。十分に決勝トーナメント進出の可能性がある組み合わせだった。

 

 ところが――。

 

 日本代表は3連敗。李はナイジェリア戦では先発、アメリカ戦とオランダ戦で途中出場している。国外のクラブに移籍するという李の希望は霧散した。

 

 広島移籍という賭け

 

 さらに――。

 

 翌2009年7月、柏の監督に就任したネルシーニョ・バチスタとの折り合いが良くなかった。

 

 動き出した李の人生の歯車の速度が落ちようとしていた。

 

 当時の李について稲川は「サッカーが大人じゃなかった」と評する。ブラジル代表経験のあったフランサとの対比が李の欠点を浮き彫りにしていた。

「フランサはうまいけど、(余計なことをするなどピッチの中で)遊ばない。また(李は)運動量が落ちていた。ネルシーニョが見ると、そういうところがすぐに分かってしまう」

 

 厄介だったのは、ネルシーニョを柏に紹介したのも稲川だったことだ。

 

 監督と選手には相性がある。李のような若い選手にはここで無理をさせるよりも、環境を変えることが必要だと稲川は判断した。

 

 李の持っている能力を引き出してくれる監督は誰か。頭に浮かんだのは、サンフレッチェ広島のセルビア人監督、ミハイロ・ペトロヴィッチだった。

 

「うまい選手っていうのはボールを見なくても足でコントロールできるはずなんですが、意外とボールに目が行きがち。そんなとき、良い監督と出会うと周りを見る習慣ができる」

 

 ペトロヴィッチの元でサッカーをすることで李が一皮剥けるのではないかと思ったのだ。

 

 ただしこれは1つの賭けでもあった。李は激しい気性の裏側に気まぐれな面がある。ペトロヴィッチと反りが合わないという可能性もあった。何より広島には佐藤寿人という絶対的なフォワードがいた。

 

「(李の)父親は“なぜ広島なんだ”と疑問を持っていたと思いますよ」

 

“持っている”男

 

 そして、移籍期限直前の8月26日、李の広島への移籍が発表された。

「(ペトロヴィッチは)オリンピック代表だったことを評価してくれて、ベンチにも入れて、試合にも使ってくれた。でもなかなか上手くいかなかった」

 

 すでにペドロヴィッチのサッカーを理解している選手たちの中に一人で放り込まれたこともあるだろう。加えて途中出場で入ることの難しさもあった。そこで李の思い切りの良さが消えていた。

 

「次の試合では移籍して初めてベンチ外になるはずだったんです。でもあいつが(運を)持っているなと思ったのは、その試合の前日に佐藤寿人が怪我をした。そこで急遽、彼が入ったんです」

 

 9月18日、李はヴィッセル神戸戦で先発起用され、得点を挙げた。そこからリーグ戦5試合で6得点。シーズンが終わってみると、3分の1程度の先発起用で11得点という好成績を残した。

 

 日本代表の監督だったアルベルト・ザッケローニは翌年のアジアカップの予備登録メンバーに李を入れた。ただし、本大会へのメンバーに入るかどうかは当落線上の選手だった。

 

 そんなとき、イタリアのノヴァーラに所属していた森本貴幸が左膝の手術を受けることになった。李のために、フォワードのポジションがすっぽりと1つ空いたのだ。李には運があると稲川は思わず唸った。

 

 12月下旬、アジア大会に出場する日本代表のメンバーが発表された。そこには李の名前があった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)など。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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