2011年1月7日からカタールで行われたアジアカップはイタリア人指揮官、アルベルト・ザッケローニが初めて挑む、中間試験のようなものだった。もちろん最終審査は、アジア予選を勝ち抜き、2014年のワールドカップで好成績を残すことである。

 

 日本代表はサウジアラビア、ヨルダン、シリアとグループBに入った。初戦のヨルダン戦ではアディショナルタイムに追いつき、1対1で引き分け。その後はシリアとサウジアラビアを退けてグループ首位で準々決勝に進出した。

 

 このチームのフォワードの中心は背番号11番を付けていた前田遼一だった。前田のワントップに本田圭佑、香川真司、松井大輔らの攻撃的な中盤の選手が絡む、あるいは、本来フォワードの岡崎慎司をサイドハーフで起用する、という形だった。李忠成はグループリーグではカタール戦の後半、前田に代わって出場しているが、得点には絡んでいない。

 

 広島移籍で広がった視野

 

 それでも代理人の稲川朝弘はどこかで彼が好機を掴むのではないかという予感があった。サンフレッチェ広島に移籍し、ミハイロ・ペドロビッチ監督の元で成長しているという手応えがあったからだ。

 

「広島ではセンターフォワードではなかった。シャドウ(ストライカー)としてやっていたので、サッカーの視野が広がっていた」

 

 準決勝の韓国戦は90分で結果がつかず、延長戦に入った。延長前半で日本が勝ち越すと、延長後半終了間際に韓国が追いつくという、文字通り手に汗握る試合となった。勝負はPK戦に持ち込まれ、日本が勝利して決勝戦に駒を進めた。ちなみにこの試合では李に出番はなかった。

 

 決勝の相手はオーストラリアだった。

 

 オーストラリアは2006年1月1日付で、オセアニアサッカー連盟(OFC)からアジアサッカー連盟(AFC)に転籍していた。OFCにはワールドカップ出場枠がない。ワールドカップに出場するには南米サッカー連盟(CONMEBOL)などの枠から漏れた国と行うプレーオフに勝利しなければならなかった。OFCの中でオーストラリアの力は飛び抜けていた。だが、すでに地区予選を経てチームが固まっている、そして瀬戸際に追い込まれた国といきなりプレーオフで対戦するのは不利だった。

 

 それでも2005年にはCONMEBOL予選5位のウルグアイに対して1勝1敗に持ち込み、PK戦で勝利、32年ぶりにワールドカップ本大会出場権を手にしている。翌年ドイツで行われたワールドカップでは日本と初戦で対戦。1点を先制されながらも約8分間に3点を奪い、逆転し、3対1で勝利した。

 

 このドイツ大会には中田英寿、小野伸二、中村俊輔、稲本潤一などが揃っており、好成績が期待されていた。オーストラリアはその出鼻を挫いたのだ。オーストラリアの濃いカナリア色のユニフォームは、日本人にとって苦い思い出と結びついていた。

 

 センセーショナルな決勝弾

 

 決勝戦にはそのときのメンバー、ハリー・キューウェル、ティム・ケーヒルが含まれていた。またこの試合前に、日本代表から香川や松井など4人の選手が負傷によりチームから離脱しており、ベンチには彼らの背番号のついた白いユニフォームが掛けられていた。

 

 試合は両チームとも何度か好機を迎えたが、得点には至らなかった。試合は延長戦へ――。延長前半途中に19番をつけた李が前田に代わってピッチに入っている。

 

 延長後半4分だった。

 

 左サイドを長友佑都がドリブルでボールを運んだ。しばらくキープした後、一度、遠藤保仁に戻した。遠藤からボールを再び受け取った長友は右足で大きくボールを前に出し、オーストラリアのディフェンダーを振り切ると、サイドライン手前から左足でクロスボールをあげた。

 

 ゴール前にいたのは李である。李は空中のボールを左足で捉えてゴール左に叩き込んだ。ゴールキーパーは手を出したが、一歩も動けなかった。力を入れすぎず、ボールの芯を捉えてコースを狙う。お手本のようなシュートだった。

 

 この得点が決勝点となり、日本代表はアジアカップ4度目の優勝を成し遂げた。

 

 アジアカップで2試合目、いずれも途中出場である。その短い時間の中で得点を決めた李の運の強さを稲川は改めて感じた。

 

 そしてこのゴールは李の人生を変えた。

 

 この映像を欧州で食い入るように見ていた男がいたのだ。現役時代にゴールキーパーだった彼は日本リーグ時代のマツダ――現・サンフレッチェ広島から誘われたことがあった。それ以降、日本のサッカーに興味を持っていた。彼は李のシュートを気に入り、自分が指揮するチームのロッカールームで士気を上げるためのビデオの中に入れた。

 

 男の名前はナイジェル・アドキンスと言った。このとき彼はイングランド1部、サウサンプトンの監督を務めていた。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社+α文庫)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社文庫)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(集英社インターナショナル)、『ドライチ』(カンゼン)、『ドラガイ』(カンゼン)など。最新刊は『全身芸人』(太田出版)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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