父親の強い勧めで愛媛FCジュニアユースの一次セレクションに参加し、見事合格した曽根晃太。彼は当初、セレクション参加に乗り気ではなかった。それでも、レベルの高い仲間たちと一緒にサッカーができたのが嬉しかったのだろう。ゲーム形式のトレーニングをこなすうちに「愛媛FCジュニアユースに入りたい」と思い始めた。

 

 

<2019年7月の原稿を再掲載しています>

 

 

 

 

 

 愛媛FCジュニアユースのセレクションは2部構成になっていた。一次を通過した選手は二次セレクションを受ける。それに合格すると晴れてジュニアユースに入れるのだ。「早く二次も受けたい」と思うほどウキウキだった少年に残念な知らせが届いた。

 

 二次セレクションの日程が当時所属していた新谷サッカースポーツ少年団(新谷SSS)の小学校最後の遠征(大阪)とかぶっていたのだ。当初、曽根は「ジュニアユースのセレクションに行きたい」と言った。当たり前である。これがサッカー人生を左右することになることくらい小学生でも理解はできていた。

 

 しかし、そこに待ったをかけたのが父・健史だった。そして「新谷の遠征に行くべきだ」と曽根を説得した。元々、父が曽根にセレクションを勧めたのに、なぜなのか。父・健史はこう述懐した。

 

「新谷の遠征はもう、年間スケジュールとしてだいぶ前から決まっていました。そこに愛媛FCジュニアユースのセレクションがポッと入ったからといって“遠征には行けません”というのは人として違うのかなァ、と思いました。新谷というチームに対して失礼にあたる。それで晃太には“日程がかぶったのは残念だけど、最後の遠征をすっぽかすのは違うんじゃないか”という話をしました」

 

 息子は父の言うことをきちんと理解していた。「父は義理を大切にする人なんです」と語り、こう続けた。

「“今のオマエがあるのは新谷というチームのお陰だぞ。感謝の気持ちを大事にしなさい。応援してくれる人、支えてくれている人がいる。だから最後の新谷の遠征には行くべきだ”と父は教えてくれました」

 

 残っていたツキ

 

 そして、曽根は二次セレクション受験を断念。新谷SSSの大阪遠征に参加を決めた。この決断を下した段階で愛媛FCジュニアユース入りは諦めるのが至極当然だった。ところが、である。曽根にはツキがあった。

 

 父は二次セレクションを断るために愛媛FCに電話をかけた。電話を取った相手にその旨を伝えた。するとちょうどその場にジュニアユースの監督が現れたという。「監督にかわります」と言われ、取り次がれた。

 

 父・健史の回想――。

「偶然なんですが当時のジュニアユースの監督も新谷SSS出身だったんです。その監督も“新谷は遠征が多いのは僕もわかりますし、そちらを優先するのもわかります”と言ってくれました」

 

 そして、一次セレクションでどれだけ曽根がずば抜けていたかがわかるエピソードも父は語ってくれた。

「“晃太くんは合格にしようと思っていました。だから愛媛FCジュニアユースに来てほしい”と言っていただきました。それを聞いた時は、ありがたいなと素直に思いました」

 

 日程面で都合がつかず、勝手にセレクションをすっぽかすことをせずにきちんとクラブに電話を入れた父の律儀さと、一次セレクションできっちりアピールした曽根のサッカーセンスの良さの2つで勝ち取った愛媛FCジュニアユース合格と言ってもいいだろう。

 

 後日、愛媛FCジュニアユース側と父と曽根は面談をして、正式にジュニアユース入りが決まった。中学に上がり曽根は芝生のピッチでボールを追いかけるようになる。曽根の住む地域から、ジュニアユースの練習場まで電車で1時間以上かかる。それでも曽根は周囲の人に支えられながら、レベルの高い環境でサッカーができるのであった。

 

(最終回につづく)

 

<曽根晃太(そねこうた)プロフィール>

1997年7月13日、愛媛県喜多郡出身。新谷SSS-愛媛FCジュニアユース-済美高校-明治大学。2つ上の兄の影響でサッカーをはじめる。ドリブルを武器に小学生時代から2列目のアタッカーとして頭角を現す。済美高校時代には国体愛媛県選抜に入った。2016年4月に明治大学体育会サッカー部に入部。インディペンデンスリーグと総理大臣杯を中心に戦う。大学最後の今季はレギュラー奪取を目指す。身長167センチ、体重61キロ。

 

(文・写真/大木雄貴)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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